春の異動・・・塩釜高校へ

 今朝の新聞で発表になったが、私は今春の人事異動で塩釜高校に移ることになった。水産高校での生活は7年。初任の女川が5年、石巻高校が9年、仙台一高が7年だから、実にほどほどな年数で、偏差値ランキングの上から下まで、普通高校も専門高校もと、バランスの取れた模範的な異動をしていると思う。
 一応(あくまでも一応)、1校8年、同一地区15年というルールが宮城県にはある。私は14年勤務したところで、一度仙台(異動の地区分けでは中部地区)に出て、定年まで残り13年で石巻に戻った。水産高校に7年いて、残りは6年なので、今春異動があって当然とは思っていたが、まさか石巻地区から出されるとは思っていなかった。自分自身の希望も石巻(異動の区分けでは東部南地区)だった。自宅から学校まで、電車に乗って1時間あまりの通勤をするのは気が重い。
 私が水産高校に勤務を始めたのは2010年4月だった。間もなく1年というところで、東日本大震災が発生した。学校は避難所となり、その後、内陸の仮設校舎に移った。そこで2年近くを過ごし、渡波に戻った。昨秋120周年を迎え、今年に入ってから新校舎の建築が始まった。私は水産高校学に専念した1年目を終えて、今はなき情報科学科の担任になり、全く同じメンバーで3年間持ち上がるという貴重な体験をさせてもらった。その間、2012年には『それゆけ、水産高校!』(成山堂書店)が出版された。魚をさばく技は、1年目こそ熱心に学んだが、その後尻すぼみになってしまった。蛸のヌメリ取りも、1シーズンだけだったので、熟練には至らなかった(→参考記事「タコと闘う」)。一方、牡蠣剥きは上手になった。教員を辞めても生きていけるくらいだと自負している(笑)。
 最初の年は、最も性に合わない教務部という部署(成績や入試を扱う)にいたが、その後4年間は企画情報部というところで、主に中学生の勧誘に当たり、その後2年間は進路指導部で就職の世話に当たった。企画情報部では、中学校の先生よりもむしろ学習塾の魅力的な先生方と知り合うことが出来、進路指導部では会社の方々と知り合い、多くの職場を見せていただけたことが、今更ながらも財産になった。水産高校とは何かということを意識的に学んだということもあってか、ほとんど例外的に、普通科(専門外)の人間でありながら、水産高校と外部とを繋ぐ立場に6年間いられたことは、自分にとっては幸せだったと思う。
 教科指導という点では、とてもストレスフルな時間だったが、一方、自分自身の問題意識で、水産高校にいることに意義を感じていたのも確かだ。このブログをずっと読んでくれていた方は分かると思うが、私は食糧問題、エネルギー問題について並々ならぬ危機感を持っている。すなわち、石油がいつまでも自由に手に入るわけがない、食糧自給率38%は安全保障上の重大問題だ、そう遠くない将来、食べられることが当たり前という時代は終わるだろう、飛行機は真っ先にダメになる、だが貿易をゼロにすることは出来ない・・・だとすれば、農業と水産業は絶対に今よりも必要性が増すのであり、必要最低限という条件付きだが、海運業も守られなければならない、ということだ。日本の耕地面積は狭いが、EEZ排他的経済水域)は世界6位にもなる。一網打尽の巻き網漁業に将来はないにしても、沿岸漁業や一本釣りはなくなるわけがない。この意味で、私は自分自身が農業や水産業に直接従事できないのであれば、広報や宣伝、求人活動において、教員を辞めて水産・海運業に携わってもいいくらいの気持ちを持っており、その気持ちに基づいて仕事をしてきた。
 4月から勤務する塩釜高校は、6年前に塩釜高校(男子校)と塩釜女子校が統合されて生まれた、普通科と商業科併設、各学年10クラス、県内最大の高校である。統合の歴史を反映して、東キャンパス、西キャンパスと校地・校舎も二つある。私は東勤務らしい。それが普通科なのか商業科なのかは分からない。山岳部の顧問に返り咲くことは分かっている。が、それ以上のことは分からない。28日に赴任のための打ち合わせに行くことになっている。まだ抱負を語る気にもなれない。
 今日はとりあえずここまで。