「楽しい話」をしよう!

 昨日は、朝から東北大学多元物質科学研究所(多元研)という所に見学に行っていた。友人にコネがあって、見せてくれるのだとか・・・。私が学生時代、非水溶液化学研究所とか科学計測研究所とか選鉱製錬研究所とか言っていた組織を、15年ほど前に統合して出来た研究所である。理系の研究機関が集まる東北大学片平キャンパスの半分くらいの面積を占める。職員と学生(ほとんど院生)がそれぞれ350名あまり、750名ほどになる、場所的にも人的にもとても大きな研究機関である。もっとも、昨日は友人の知り合いのTさんという技官が個人的に善意で案内してくれただけなので、2時間がかりで見ることができたのは、全体の1%くらいか?NMR(核磁気共鳴装置)を始めとする、貴重な実験機器をいろいろ見せてもらったが、残念ながら何が何だかよく分からなかった。
 午後は、高校教員有志による勉強会の準備会。雑談風の場面で、私が以前書いたような(→こちら)若者の学ぶ意欲ということが話題になった。10人ほどの教員が集まっていたのだが、どこの学校でも同様で、私たちの問題意識も共通していた。
 その中で、A先生がこんなことを言った。「集まってお茶のみしようって言うと、来るんだよね。だけど仕事や勉強の話じゃなくて『楽しい話』ならいい、って言うんだ。せっかく集まるんだから、『楽しい話』しよう、って。」
 その場にいた誰も突っ込まなかったが、私は若者が求めるという「楽しい話」という言葉を、ひどく不思議な気分で聞いていた。と言うのも、客観的に「楽しい話」など存在するはずもなく、何を楽しいと思うかは価値観そのもので、「仕事や勉強の話」と「楽しい話」を対義語であるかのように扱うのは変だからである。問題は何を「楽しい」と思うかだ。
 時々、酒の席で、「今日は仕事のことなんか忘れて、パーッと楽しくやりましょう!」と言う人がいる。私なんかは、職場の人間と酒を飲む時には、仕事の話をしていた方が「楽しい」と感じる。授業やクラスに何か問題があったとして(普通はある)、いくらそのことから目をそらして「パーッと」やったとしても、次に学校に行った時に現実に直面すれば、一瞬にして心は振り出しに戻る。ストレスなんて、酒を飲むことで発散されたり解決したりしない。せいぜいのところ、ほんの一時、麻痺して忘れるだけである。それだったら、むしろ仕事の話をして、解決のためのヒントを一つでも二つでも仕入れることが出来た方が、もしくは同じ土俵で慰め合えた方が、まだ明るい希望を持って教室に行けそうな気がする。そう考えるほうが「楽しい」。
 非常に学力の低い生徒を見ていると、「面白い」の感覚が全く違うな、といつも感じる。funnyやamusingはあっても、interestingのない世界に見える。こうなると、私が「これは面白いぞ!」などと思いながら授業をしても、彼にとっては絶対に面白くない。どう考えても面白いとしか言いようのない文章を授業で読んでいて、その授業を死んだような目をして受けている生徒が、外でバイクの音が聞こえた瞬間、しゃきっと頭を上げ、目を輝かせる。絶望的な「価値観の壁」だ。まだ分からないのではなく、決して分からないのではないか?
 理屈は意識的に作り上げるものだから制御できるが、感情は自然発生的であり、コントロールするのは難しい。したがって、「楽しい」を教えること、「楽しい」の中身(対象)を変えることは、相当に困難であるに違いない。「仕事や勉強の話ではなく、楽しい話を」という若者に、「仕事や勉強の話こそが楽しい」と思わせることは果たして可能なのかどうか?学ぶことを「楽しい」と思わない若者が、学ぶことを「楽しい」と思わない生徒に、「楽しい」と思わせることは可能なのか?これはどう考えても無理。相手が「楽しい」と思う内容に、学ぶ内容を合わせていくしかない。それが向上に結びつくことなんて・・・多分ないな。
 あれれ?タイトルに反して、この記事は全然「楽しい話」にならない。