学校で学んだのは「学び方」

(7月21日付け「学年主任だより№15」より)


 私は、家事や勉強の都合もあり、電車が1時間に1本しかないという事情もあって、できるだけ5時半の電車に乗れるように努力している。
(私は主夫です。また、某生徒と先日こんな話をしていたら、「先生も勉強なんてするんですか?」と言われてびっくりした。人間は一生勉強なのだよ。勉強が仕事の高校生ほどではないと思うけど(嫌みです=笑)、私は1日2時間以上机に向かうようにしている。)
 夕暮れ時の海はきれいだな、などと思いながら、切れ切れに見える松島湾を眺めていると、ヨットが浮かんでいるのが見える。競技用の小さなヨットだ。もしかして・・・と思い、ヨット部員に尋ねてみると案の定、面談期間に入ってからは平日でも練習しているのだそうだ(準備、後片付けを考えると、すごく大変!)。思えば、ヨット部はインターハイに出場する。今は追い込みの大切な時期だ。
 さて、この夏休み、3学年からは次の諸君がインターハイに出場する。応援には行けないが、大いに健闘を期待しようではないか。

少林寺拳法部  ヨット部  ボート部  (生徒名等省略)


【諸君が高校で学んだことは・・・】

 10日あまり前、某クラスの授業で私が珍しく「たんぱら(短腹)を起こし」た(この方言分かるのかな?簡単に言えば「切れた」ということ)。週末課題を返し、例によって解説をしていたのだが、問題になっている漢字について、訓読みや意味を聞いても全然答えが返ってこないからだ。「知らないものは仕方がないではないか、生徒が知らないことを教えて分かるようにするのがお前の仕事だろ?」と言うのは間違い。
 「漢字は言葉だ」という合い言葉の下、私は今まで同様の解説を3ヶ月間続けてきた。だから諸君は、漢字を学ぶというのがどういうことか、勉強するとはどういうことなのかが既に分かっているはずだ。私が授業で解説しているようなことは、自宅で週末課題に取り組む時に自分自身で調べておくのが当然なのだ。やる気があればできることは、自分ですべきなのだ。
 誤解してはいけない。諸君が学校で学んでいるのは、個別の知識ではなく「学び方」である。学校で与えられる知識の量など、生きていく上で必要な知識の量からすれば、ほんの微々たるものだ。しかも、学校を卒業して先生がいなくなったらもう学べないというのも困る。人は生涯を通して学び、成長していくべきなのである。
 「自分を伸ばせるのは自分だけ」「学ぶことの効果は学ぶ人の主体性にかかっている」ということを、私はこの2年3ヶ月間何度も繰り返して諸君に語ってきた。自分を伸ばすことは「学び方」を身に付けた人にのみ可能なことである。それができていない人は?・・・そもそも夏休みなんて無駄だから、毎日学校に来させた方がいいな。 


裏面:7月9日付け朝日新聞「小学生が迫った『なぜ』学術誌掲載」を貼り付け。
平居コメント:「素朴な疑問」は学ぶことの原点。身の回りの些細なことでも、簡単に「当たり前」と思わず、考えたり調べたりしてみると、思わぬ発見に至る、というのは実はあまり珍しくも不思議でもない。普通の人は、なんとなく「そんなものかな」と思ってそのままにしてしまうだけなのだ。小学校には、夏休みの自由研究という課題があったはずだ。高校生だってやったっていい。課題として点数になるかどうかと、自分にとって価値があるかどうかは、あまり関係がない。

*他の記事(夏休み関係の連絡・注意)省略