戦後教育の転換点・・・林竹二『教育亡国』をめぐって(1)



 ちょうど1週間前のこと、「これ読んでみて」と言って、元小学校教諭である義母から1冊の本を手渡された。見れば、いささか古ぼけた林竹二の『教育亡国』(筑摩書房、1983年)という本であった。義母が何を思ったかは知らない。ごく軽い気持ちで、なんとなく貸してくれたのかも知れないし、今の私に何かの問題を感じていて、この本を読ませるべきだと思ったのかも知れない。ともかく、ありがたくお借りして帰って来た。

 1週間もかけて読んだ。林がどのような人であるか知らなかったわけでもなく、その著作に目を通したことがなかったわけでもない。だから、共感できるところ少なくないはずだと思いながら読み始めた。そして、確かにその通りの箇所も多々あったのだが、また、以前読んだ時から時間が経ち、私自身が生意気になったことで、反感や疑問を感じることも多かった。せっかく本をお借りしたことでもあるので、感想を書く形で、私自身が今の学校について何を思っているのか整理しておこうと思う。あまり明るい話にはならないかも知れない。


 林が最も強い危機感を抱いているのは、教育内容を国家が統制していた戦前と異なり、戦後教育では、教員が国民に直接責任を負う体制に変りかけたにもかかわらず、教育主体の未発達と官僚の画策とによって、結局戦前と同じ体制に戻ってしまったことについてである。

 GHQは戦前の日本教育に非常に強い問題意識を持っていたが、間接統治の形をとったために官僚を温存せざるを得なかった。その官僚は、GHQの撤収とともに、教育権を自分たちに取り戻そうとし、ざまざまな画策によってそれを実現させる。その結果、教育は再び国家権力の末端となって、その指示に従い、形式を守るために汲々とするようになり、更に、教育が財界と結び付くことによって、教育は人を教え導くものではなく、選別・差別のための場となってしまった。林はこのプロセスを丁寧に、繰り返し検証する。

 「差別・選別」をひとまずおいて、この部分は基本的に私の思いと重なり合う。私もこのブログで、再三にわたって同様の主張をしてきた。違うのは、重大な転換点をどこに見るかということと、なぜ官僚による教育の支配が悪いのかという点についてである。

 私は、教育の転換点(学校教育の滅亡点)としてよく日の丸・君が代を問題にするが、林は様々な法改正とともに全国一斉学力テストや道徳という科目の設置を挙げる。ただ、これは単に世代の違いと言えなくもない。

 なぜ官僚による教育支配が悪いのかは、重要な点だろう。林は、それによって学校が形式主義に陥り、子ども達に本来教えるべき(子ども達が本来学ぶべき)ことをないがしろにするからだと言う。林によれば、子ども達が、問題と取り組みながら自己と格闘することにこそ授業の意味があるのであり、中央集権的で形式を重大視する学校では、その実現が困難なのだ。一方私は、民主主義との関係でよく物を言う。すなわち、民主主義は常に是非を問い直すことによって健全に維持されるので、たとえ民主的に決まったことだからと言って、それに従属することは許されない。だから、教育は常に政治から自由でなければならず、上意下達社会になってはいけないのである。突き詰めていけば、林も健全な批判主体を育てようとしているという点で、私の意見と一致するのかもしれない。しかし、私には、林の物言いが観念的に見える。それは、彼の授業実践が、人間存在に関する根源的な哲学問題ばかりを取り上げていて、具体的な社会問題には触れていないという点にあるだろう。(つづく)