被災地であるよりも過疎地



 昨日は、久しぶりで愛知ボラセンの活動に顔を出した。ボラセンは7月末以来、活動の拠点を渡波小学校から旧牡鹿町の十八鳴浜(くぐなりはま)に移してしまった。我が家から渡波小学校は車で15分だが、十八鳴浜は1時間だ。人の出入りが激しく、中途半端に忙しかったこともあって、いきおい足が遠のいてしまっていた。

 10時に、十八鳴浜の集会所のような所に着き、小沢地区のコミュニティーセンターに移動。その後、ボランティアの若い女性3名と仮設住宅への慰問に行った。この他にも、ボランティアは昼食の準備をしたり、集落の草刈りをしたり、それぞれの班に分かれて活動していた。

 さて、私達の班は、炊き出しの案内チラシを配るという形式(口実?)で戸別訪問をし、住人である老人と話をするというものだ。不在の家も多かったが、人がいた家では、歓迎されてけっこう玄関先の長話になる。ある家では、結局、家の中に上がり込んで86歳のおばあさんの長〜いお話を「拝聴」することになってしまった。まぁ、これが目的だから文句はない。

 12:30から仮設住宅の「談話室(12畳)」で、炊きだし(昼食会、ボラセンでは「くぐなり食堂」と名付けている)が始まったが、その時間帯には在宅だったほとんど全ての人が集まり、実に楽しそうに話をしながら食事をする。この日のメニューは、菜めし、サバのみそ煮、けんちん汁だ。やがて、誰からともなく歌が出て、雰囲気は宴会となってくる。談話室の外で聞いていると、まるで酒宴をやっているようだ。それくらい盛り上がっている。

 私は途中から、部屋の外で、ある住民の方Aさんとお話しをしていた。その後、草刈り班に召集がかかったので、私も付いて行って作業をすることにした。浜の集会所の回りの草刈りである。1時間だけだが、汗を流した。

 この草刈りは決して「復興・復旧」のための作業ではなかった。震災なんかなくても必要な作業だったのである。仮設住宅では大歓迎を受けたが、これもまた震災とはあまり関係がないような気がする。この牡鹿半島一帯の浜は、すべて高齢化の進んだ「限界集落」ばかりである。震災前だって、若い人が訪ねれば、ただそれだけで大歓迎されたに違いないのである。

 日本全国に、同様の限界集落は無数にあるに違いないのに、正に震災のおかげで光が当たった。そして、ボラセンがたまたま何かの事情で十八鳴浜に目を付けたために、週末毎に若者の訪問を受け、それなりに楽しい時間を過ごし、作業も手伝ってもらえるようになっている。「震災様々」なのではあるまいか?私には、震災よりも、そのような地方の深刻な過疎化の問題の方がよく見える。

 聞けば、十八鳴浜で被災した家は80軒あまり、現在浜の仮設に入っているのは26軒。他は、石巻や仙台に住む子供の家に身を寄せたり、鮎川浜の仮設に入っているそうだ。自宅再建の見通しが立っている人はほとんどいない。この地に市営住宅でも建ててくれなければどうにもならない、と言う。「先は見えないね〜」と話している時だけ、Aさんは過疎地の老人であることを止めて、一瞬、被災者の表情になった。