PTA考(2)



 こうなると、気になるのは、そもそもPTAは元々何のために作られたのか、ということである。

 かなり昔からあるので、PTAという名称から想像すると、戦後、GHQがアメリカ流の民主教育システムを持ち込もうとする中で、設置を求めたことが想像される。実際、手元にある本(全国PTA問題研究会編『PTAとは何か 総論編』あすなろ書房、1997年)によれば、占領軍民間情報教育局の「勧奨」が、直接の契機になったという。それに基づき、文部省は1947年3月に「父母と先生の会―教育民主化の手引き」というものを作ったが、現在のPTAはこの「手引き」を元に作られたようだ。

「学校と家庭と社会とが一つになって子供達の幸福のために尽くしていく組織が必要になるし、このような組織が出来上がって始めて子供達のための仕事が具体的に進められるのである。(中略)(その組織は)先生が中心となった会ではなく、先生と父母が平等な立場に立った新しい組織を作るのがよい。これが「父母と先生の会」である。」

 根拠と言えば根拠なのだが、義務ではないようだ。続けて、「父母と先生の会」ができるとどんな利益があるか、を羅列している。15もあるので、傾向の似たものを整理すると、次のようにまとめられるだろう。

(1)会員(保護者と教職員)のコミュニケーションを深める。

(2)生徒の学習環境の整備・向上を図る。

(3)生徒の指導に資する。

(4)会員に研修機会を提供する。

 思えば、これらは、ほとんど全ての学校で、PTA会則に定める会の目的や、そのための事業の内容と重なり合う。つまり、現在のPTAは、この時の文部省の示した指針に沿った形で作られ、運営されてきたのである。

 では、これらの目的は果たされているのだろうか。

 確かに、PTA会報を発行したり、学校によっては全体や支部の懇親会があったり、PTA講演会や研修旅行といった企画があったりするので、(2)(4)については、多少果たされているように思う。しかし、PTAがあるおかげで、それらの企画が実現してよかった、と思えるほどのことには思われない。全体的に低調で、むしろ、PTAがある以上は、何かやらないわけにもいかないからやった、という程度の場合が多い。(3)は、学校の教育活動に保護者が直接参加したり、駅や校門での挨拶運動という形で見ることの出来る学校がある。宮水の場合は、就職試験を受ける生徒の面談練習に保護者の協力を依頼する場合がある。しかし、これもごく特定の保護者だけであって、組織として対応しているという程のものではない。

 となると、重要なのは(2)だということになる。前回書いたように、教員の側で、お願いをしてまで役員を引き受けてもらったりしながら、PTAに存続してもらわなくてはならないのは、それがなくなると、金銭的な支障が生じるからではないだろうか。

 公のお金というのは、請求・支出の手続きが面倒で、しかも用途に融通が利かない。現場の裁量で自由に使えるお金というのは、どうしても必要なのである。もしかすると、タテマエの世界では、保護者や同窓生から集めたお金を学校の運営に当ててはいけないのかも知れないが、ホンネの世界では、それがなければやはり学校運営に支障が出る。そこで、学校が保護者から強制的に徴収するのではなく、PTAのお金を「補助金」という形で学校に流したり、後援会や協力会といった外郭団体がお金を集め、それで学校を援助するという形を取ることになる。PTAの、学校にとって最大の存在価値は、この点にあると思われる。(続く)