フィンランドの教育を考える(3)



 フィンランドの教育システムに少し目を向けてみよう。

 フィンランドでは、教育の決定権が実質的に各学校にある。国には教育省や国家教育委員会という組織が存在し、「国家カリキュラム大綱」なるものが策定はされているが、ガイドラインでしかなく、現場がそれに縛られているという感覚はないようだ。教科書採択の決定権を持つのが、現場の教員一人一人であるという点に、そのことは最もよく表れているだろう。

 国家による学校の監視も、日本のように、国の決めたことにきちんと学校が従っているかどうかをチェックし、反していれば指導するというようなものではなく、国の教育政策や国家カリキュラムの現場にとっての妥当性を検証し、また、学校が抱える問題の改善をどのように支援したらよいかという観点で為されているようだ。管理監督ではなく、サポートなのである。もちろん、人事考課制度のようなものは存在しない。

 このように見てくると、フィンランドの教育システムは、まさに日本の旧教育基本法に書かれた「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接責任を負って行われるべきものである」ということを現実化したものに思われる。だとすれば、この点でも、教育基本法が2005年に「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり(以下略)」と書き換えられてしまった通り、日本はフィンランドと全く逆の方向を向いていることになる。

 国家が教育を統制することの是非、などと言うと、ひどくイデオロギー的な色彩を帯びて聞こえるかも知れないが、思想以前の問題として、組織というものは大きくなればなるほど柔軟性を失い、形式主義的になってしまうというのは、あまりにも当たり前のことであろう。また、議員や官僚は人気取りのために、理念を離れてパフォーマンスを演じがちである。だから、国や県が教育を支配した結果として、いかに馬鹿げたパフォーマンスや形式主義が横行し、現場を混乱・多忙化させ、更には教員の良心を苦しめるかという例は、正に枚挙に暇がないほどである。一方、フィンランドのように教師が直接国民、生徒に責任を負えば、教員一人一人が教育のあり方について考え、その使命感を向上させ、生徒の実情に合わせた指導を行えるという大きなメリットがある。日本が、フィンランドと全く逆の方向を向いていることは残念である。

 これらのことからは、以下のようなことが考えられるであろう。

 一つは、民主主義国家における「権力」のあり方という問題である。どうも、フィンランドでは、常に政府が国民を見ながらその動きを支えていくことが民主主義であると考えられているのに対し、日本では、手続きが適正であれば、それによる決定は、いかなる性質のものであっても(つまり軍事・外交だけでなく教育でも)国民を支配することが許されると考えられているようだ。

 もう一つは、性善説に立つか性悪説に立つかという問題である。フィンランドでは、教師は良い教育をしようとしているという前提で、上手くいかない時は、その資質を疑うのではなく、その教師を取り巻く条件に問題があるのではないかと考えて支援的に対処しようとしている。一方、日本では、教師は放っておくと何をするか分からないという不信が前提としてあるように思われる(近年は特にひどい)。だから、監督官庁の方針から逸脱しようとしていないかどうかを監視し、トラブルが起きれば、教師の資質を問題にする。ここに表れた教師を信じるか信じないかという問題は、教師が生徒を信じることが出来るかどうかに反映されてくることになる。フィンランドの教師が、生徒の内発的な学習活動を支援するという姿勢を持ち、生徒が学習に目覚めるのをじっと待つことが出来るのは、システムの違いのみならず、この視点の問題にも大きな原因があるだろう。いや、このような視点の違いがあるからこそ、異なるシステムが生み出されるのである。(つづく)