フィンランドの教育を考える(番外)



 フィンランドの教育に関する本を読んでいて、ひとつ気になったことがある。それは、学習を阻害する子供文化についての話が出てこないことだ。日本の教員の多くは、携帯電話とゲームがいかに子供をダメにしているか、知りすぎるほど知っているだろうと思う。親だって、困ったことだと思いながら、どうにも出来ずにいるのではないだろうか?

 かつて、テレビが普及し始めた時、大宅壮一だったかが「一億総白痴」の時代がやってくると警鐘を鳴らしたことがあったが、現在の携帯電話やゲームの有害であること、テレビの比ではない。生徒は四六時中携帯電話を手にしている。これがないとたちまち精神の安定を失うかのようだ。携帯の奴隷と言ってもよい。授業中、携帯電話を使っていた生徒からは、それを没収することになっているのだが、没収すると、一度たりとも勉強に関する質問にも、人生相談にも来たことのない生徒が、繰り返ししつこく「返せ」と言いに来る。まぁ、このようなことは私がいちいち書かなくても、街中の若者を見ていれば、誰にでもおよそ想像の付くことであろう。

 ところが、フィンランドに関する本を読んでいて、それらについての記述はついに1カ所しか目にしなかった。それによれば、フィンランドでは、子供の持っている携帯電話は、メールもインターネットも使えない「本当に基本的な機能だけ(おそらく通話だけということだろう)」のものだそうである。日本のような携帯電話やゲーム機は、書いていないから、書くまでもなく当たり前に存在しているのではなく、おそらく存在していないのだ。

ここには、子供を商業主義の餌食にしないという、フィンランド社会の配慮が感じられる。日本のような多機能携帯を売り出しても、ばかばかしいから買わないという良識を人々が持っているのかも知れない。

 一方で、フィンランドは、読書運動が非常に盛んで、図書館の充実度が他国とは比較にならないという。本の読み聞かせも家庭及び学校内外でよく行われているようだ。フィンランドが高い学力水準を維持していることの背景には、優れた教育理念や、それに基づくシステムだけではなく、このような、子供の文化環境に対する配慮もまたあるのだと思う。ぬらりくらりと言い訳しては携帯やゲーム機、アダルトビデオの類を放置しておきながら、学力低下はケシカランと、学校の管理体制を強めようとする国に比べて、なんと良識豊かな大人の国であることかと思う。