辛亥革命100周年・・・「1911」を観て



 先日、珍しく(←嫌いなのではなく、時間がとれない)映画を見に行った。「1911」という映画である。今年は、辛亥革命100周年に当たる。それを記念して、中国と香港が共同し、相当な力を費やして作った大作だというので、中国近現代史を一応「専門」と自称する私としては、やはり見ておきたくなったのである。

 映画としての出来は、決して良くない。ある程度の歴史的知識がなければ、何が起こっているのか、なぜこうなるのか分からないという場面がちらほらある。また、辛亥革命とは一体いつからいつまでなのか、という議論もあるほどなので、映画もどこからどこまでを切り取って映画化するか、悩ましいところだ。この点でも、始まりはともかく、仕方なかったのかも知れないが、終わり(宣統帝の退位、孫文の臨時大総統辞任)は実にすっきりしない。黄興を自ら演じるジャッキー・チェンが、監督も務めている。演技は本当に立派なものだが(すばらしい!高倉健みたい!)、監督としては及第点が差し上げられない。

 そんなことはともかく、二つのことが印象に残った。

 一つは、袁世凱が某人物に、「孫文はなぜ人々を動かせるのか?」と問いかけたところ、某が「孫文には私欲がありません」と答えた場面だ。孫文という人には、すべての人が食べられる世の中にしたいという理想と情熱だけあって、それによって自分が得したいという気持ちがなかった、だからこそ、彼が革命を訴えた時に人は動いた、ということだ。孫文にそれなりの能力と人徳があったことは間違いないが、確かに、自分の利益を考えている人のために、人は動かないような気がする。これは、利益のために動く人は、利益をちらつかせることによってしか人を動かすことができない、ということでもあるだろう。

 いささか突飛な話になるが、『新約聖書福音書ヨハネ以外)の中に、ある青年がイエスに「永遠の命を得る」方法を尋ねる場面がある。イエスは「あなたの持ち物を売り払い、貧しい人に施せ」と答えるが、その結果として「青年は悲しみながら立ち去った」と続く。せっかくイエスに「永遠の命を得る」方法を教えてもらいながら実行できない青年に託された人間観は、なんと深刻なのだろう。人が自分の持ち物を全て投げ出すこと、つまりは「私欲」から自由になることは、これほどまでに難しいことなのだ。難しいことだからこそ、また「永遠の命を得る(=天国に入る)」や「人を動かす」という困難なことを実現させられるのである。価値あることは、いかなる場合でも簡単には実行できない。

 もう一つ、「辛亥革命」とは言っても、それによって実現したのは清王朝の崩壊だけで、全ての人が食べられる世の中を作るという孫文の理想が実現したわけではない。この映画の中でも、人はたくさん死ぬが、そんなものとは比べものにならないほど膨大な数の人命を犠牲にして(国内の権力闘争に抗日戦争が絡むのでややこしい)、中華人民共和国の成立という形で一応の統一が実現するまでには、清朝の崩壊からさらに37年を要する。しかも、それで中国に安定と平和が実現したかと言えば、決してそんなことはなく、文化大革命に代表されるような混乱は後から後から起こって、平凡な市井の人々を苦しめる。落ち着いた平和な時間などほとんどないのである。

 私たちは今年、震災によって、平凡な日常がどれほどすばらしく、尊いものであるかということを知った。そしてそれは、作り出すことも守ることも難しい、ひどくはかないものなのだ。中国の近現代史の中には、そのことが典型的に表れている。映画には描かれない、その後の中国の37年の歴史が自然と頭に浮かび、ひどく不安な気持ちになると同時に、現在の自分の生活がいとおしくてならなかった。