中国音楽研究会のこと(3)

承前。以下、2014年10月執筆記事(本文中の時間の起点がこの時であることに注意)。


 中音研の何たるかは、昨日までの記事でおよそ分かるとして、では、『新中國の音楽』はどのようないきさつで生まれた本なのだろうか?この本の「序文」は東洋音楽学会会長・田辺尚雄氏によって書かれ、「あとがき」は中音研によって書かれているが、どちらも至って短いもので、本の成立に関する言及はない。
 『小史』によれば、この本の企画が始まったのは1954年春で、翌1955年8月29日に「企画打ち合わせ最終会議」が開かれた。出版が実現したのは、1956年10月19日であるが、少なくとも「最終会議」までは、『中国歌曲集』として構想されていた。
 昨日も書いたとおり、中音研では、新しい中国の歌を紹介し、広めるという目的を果たすため、1953年からガリ版刷りの『新中國歌集』刊行を始めた。第1集が1月25日、第2集が9月25日、第3集が1954年5月1日と、相当なペースで刊行が続いたが、第3集の「編集後記」には、「中国語に仮名をふることは、ガリ版刷りでは、著しく楽譜の体裁をそこなうので、二曲だけにとどめ、近い中に活版で総合版を出版する時にいたします」との記述が見られる。この時期、中国語で中国の歌を唱いたいという欲求があったこと、そのために、歌詞に中国音の振り仮名を付けるよう要望が出ていたことが分かる。同時に、近いうちに『新中國歌集』の総合版を活版で出す構想があったことも分かる。この、活版による中国歌集こそが、『新中國の音楽』の元々の姿なのである。全体の3分の2以上が楽譜と歌詞に割かれたことは、そのことの名残だ。
 しかしながら、『小史』にも、「飯塚書店から依頼を受けて進められていた」という表現があるとおり、この企画は中音研から出たものではなかった。小澤さんによれば、当時、飯塚書店には矢沢保さんという編集者がいた。『新中國の音楽』という企画も矢沢氏から出て、様々な作業は全てこの方によって行われた。つまり、矢沢氏からアイデアが提示され、それによって中音研が動いたのではなく、全ては矢沢氏のアイデアと指示とで動き、形だけは中音研の編集ということにされたらしい。中音研の実質的な代表者であり、2ページ半を執筆した小澤さんも、原稿の依頼を受けた時には、他に誰が書いているのか、最終的にどのような本になるのかを知らなかった、と言うのである。文章の大部分を書いた村松一弥氏を、小澤さんは知ってはいたが、当然、村松氏は一緒に合唱をしていたわけではなかったし、中音研が中国の現代音楽について、村松氏を招いて勉強会を開いたということもなかった。『小史』に見られる「企画打ち合わせ会議」も、「最終」があるということは、それ以前に何度か行われたということなのだろうが、誰が何を議論していた会議なのかがよく分からない。
 本が完成した時、中音研には原稿料の代わりとして、本の現物が支給された。もっとも、この本はまったく売れず、すぐにゾッキ本となって、神田神保町にあった音楽古書の専門店である古賀書店の店先に積み上げられ、極めて安い値段で買えるようになってしまったので、中音研に現物支給された『新中國の音楽』を買った人の中には、文句を言う人もいたようである。
 現在でも、辛亥革命以降の中国音楽について書かれた文章はあまり多くないので、その意味では、いまだに貴重な本だと言えるかも知れない。しかし、私がある程度の知識を持っていて、内容を検証できる箇所について言えば、村松氏が書いた文章には誤りが多すぎて、信用することは非常に危険である。村松氏は学者であるが、本が一般向けだということもあって、典拠は一切示されておらず、学術的な利用には堪えない。日本と中国が国交を回復させる15年あまりも前に、民間レベルでは交流が行われ、その一つとして中国の音楽を日本に紹介しようと努力していた人たちがいたことを示す、ある種の歴史的な証言としての価値、これが第一であるかも知れない。(終わり)


(補)村松一弥氏には、『中国の音楽』(勁草書房、1965年)という専著が存在する。その第7章は「中国新音楽の歩み」で冼星海も登場するが、『新中國の音楽』よりも内容的に簡略で、かつ、間違いの多さ、典拠の不明示は何ら変わらない。