中国音楽研究会のこと(4)

 5年ほど前に、私は中国音楽研究会という組織について3回連載の一文を書いた(→こちら=今回の記事に直接関係する連載第2回)。中国音楽研究会は、『新中國の音楽』(飯塚書店、1956年)という本の編者で、名前から想像すると学術団体なのだが、どうしてもその組織についての情報が見当たらないため悩んでいた、ところが、ふとしたことから、その主宰者だったという方と出会った、では中音研とは?・・・という内容の文章である。
 その文章を書いた時には、まだまだ分からないことがたくさんあったのだが、中でも、中音研が合唱団「燎原」に改名したのがいつか、ということと、そのプロセスが最大の謎であった。
 今年7月に外山雄三氏が亡くなった(→その時の記事)。その際、日中国交回復前の文化的な民間交流を直接知る人がもういなくなったという感慨を抱いた。私は、そろそろ、中音研も含めて、当時の民間交流について整理した方がいいのではないかという気持ちを抱いた。そこで、8月に何人かの方にお手紙を出し、おそらくは最後の資料探しを行った。
 そうしたところ、『中音研小史』の著者・故玉林由光さんの奥様から、中音研の会報が提供された。中音研が燎原に変わった直後までの56枚(冊)が欠けることなく揃っている。これは驚いた。主宰者であった小澤玲子さんでさえ、不思議なことに1枚しか持っていなかった会報である。そして、それを読んで、中音研から燎原への改名プロセスと時期がはっきりと分かった。
 今後、まとまった形で中音研の歴史をまとめるチャンスがあるかどうかは分からないので、5年を経て(3)の続きとしてこの場に書き留めておくことにする。

 最初に言ってしまうと、改名は1962年4月1日である。同年3月15日発行の中音研会報「東風」第54号冒頭に、「合唱団名決定!! 4月1日より 合唱団『燎原』」と大きく書かれているからである。
 改名に関することが初めて会報に見えるのは、2年半をさかのぼる1959年9月のことである。会報第36号には、「委員会報告」(委員会は役員会のこと。実施日不詳)に次のように書かれている(表記一部改)。

「中国音楽研究会という名前を変えようではないかとの声がかなりある。この名は創立当時暫定的に付けたに過ぎないが、7年間ずっとそのままでいた。しかし、あまりにいかめしいので、今では○○(2文字不明)故に非常にわざわいになっている。内部にも『音楽研究会』という性格が曖昧な『合唱団』と考えている会員もいれば、ただ『歌う会』位にしか考えていない人もいる。そのため、運営上非常にやりにくいところがある。7周年に際して『××合唱団』にして、性格をはっきりしたらどうかとの意見があった。非正式委員会で討論したが、みんなで決める問題として結論は出なかった。」

 ここに見える「合唱団」か「歌う会」か、という議論は分かりにくい。もっとも、このことは当時の会員にもわかりにくい問題だったらしく、この直後に注が付いている。長いので要点を書くと次のようになる。

 「歌う会」:目的は歌うこと。自分たちだけ楽しければそれでよい。
 「合唱団」:楽しむことに加え、「歌を広める(聴かせる)」という目的を持つ。

 実は、「歌う会」か「合唱団」かという話は、更に3年半をさかのぼる1956年2月25日の会報第19号に、既に見えている(この時の表記は「唱う会」だが、第36号に合わせて「歌う会」とする)。新しく委員長になった後藤昭氏が、就任挨拶の中で「歌う楽しみといっても、『歌う会的な楽しみ方』と『合唱団的な楽しみ』があり、『歌う会』か『合唱団』かという問題は、中音研が当面している問題です」と書いているのだ。
 また、同年9月15日の会報第23号に載った隅田省三という人の「数回の話し合いで感じたこと」によれば、「歌う会」か「合唱団」かは、この時までにもずいぶん話し合われてきた問題であった。この年も、7月28日、8月4日とこの後の中音研について話し合う場を持ったが、隅田氏が「合唱団か歌う会かの問題では、ここに集った、本当に中音研を自分の生活の切り離せない一部にして来ている人たちが一人でも離れていくことのないような考慮が必要だと痛感した」と書いていることからすれば、この問題は、中音研分断→片方の退会という道につながりかねないとてもデリケートな問題であった。
 6年を経て議論が深まり、会員の意志統一がなされたという判断があったのだろうか?、おそらく、中音研から合唱団「燎原」への改名は、歌う会か合唱団かという議論で、合唱団へと進むことを明確にする決意表明だったのだ。(続く)