中国音楽研究会のこと(5)

 そもそも、「中国音楽研究会のこと(2)」で紹介した通り、中音研は、発足当初の目的として「中国の歌を唱い日本全国に広める努力」をすることを定めていた。すると、最初から目指していたのは「歌う会」ではなく、「合唱団」だったということになる。
 それでも、発足の4年目には既に「歌う会」か「合唱団」かが問題になっていたということは、発足当初からのそのような目的が、必ずしも共有されていなかったということを意味しているだろう。目的(目標)の確認と、合唱団への改名の呼びかけは、創立7周年を迎えた1959年11月以降加速しているように見える。
 1959年11月7日の会報第37号では、荒川建吾氏も「歌う会」か「合唱団」かを問題とし、「この(平居注:総会で決めた)活動方針を貫こうとすれば、中音研は単なるレクリエーションの“歌う会”ではあり得ない」と断じている。また、この号では、金原正明(きんばらまさあき)氏が、更にストレートに、「“合唱団”に改名しよう」と題した文章を寄稿している。金原氏は、そこで改名を主張する根拠として、「中国音楽研究会」という名前の問題点を指摘する。ポイントは次の通りだ。

・中音研は「研究」を行っていない。
・合唱しかしない演奏団体なのに「音楽」は大げさすぎる。
・「中国音楽研究会」という名前はいかめしく、大衆の親しみにくい名前であるため、組織拡大に支障がある。

 この文章の後に置かれた会報編集者による補足によれば、編集者も、「中国音楽研究会」という名称の問題点を、たびたび耳にしていると言う。「中等音楽研究会」と間違われる、「中音研」と略して言えば響きはかわいいが、活動内容がさっぱり分からない、「中国音楽研究会」と略さずに言えば長たらしく、いかめしすぎるといったことである。
 そして、いろいろな人から出された九つの新合唱団名を紹介する。それは、紅星合唱団、五星合唱団、東風合唱団、東方紅合唱団、中音研合唱団、中国音楽研究会合唱団、長城合唱団、牡丹合唱団である。既に「歌う会」ではなく「合唱団」であることは既定路線のように見える。この時点で「燎原」は候補とされていない。
 「中音研会報」は、1960年5月31日刊の第40号から、「東風」に変わった(号番号は中音研会報時代からの通算で表記)。その第50号(1962年2月10日刊)は、2月3日に開催された総会の内容を伝えるが、それによれば、「活動方針」の一つとして「系統だった合唱団として出発する」が決議された。
 この決定を受けて、2月17日にみんなが持ち寄った名前から「東風」「友誼」「燎原」の3つに絞り込んだ上で、「決戦投票」(「決選投票」の誤記だろう)を行って「燎原」を選んだ(1962年3月15日刊会報第54号に載った荒川建吾氏の文章による)。「決戦投票」などと書けばどれほど大規模な選挙かと思ってしまうが、いくつか残る会員名簿によれば、中音研はだいたい20名前後の組織なので、実際にはささやかな選挙である。
 2月20日の役員会(第2回運営委員会)では、合唱団「燎原」の規約草案が作られ、3月1日の練習時に会員による討議を行った上で決定された。いわば成り行きで生まれ、「中国音楽研究会」を暫定的な名前として出発したこの組織には、おそらく正式な規約などなく、総会での決議が規約としての役割を果たしていたと思われるので、合唱団「燎原」の発足は、目標を明確にすると同時に、組織として完成度の高いものにするきっかけになったようだ。
 しかし、この後「燎原」は、必ずしも順調に運営、発展できたわけではない。そのことは、既に(2)で少し触れた通りである。(続く・・・かな?)