外山雄三氏を惜しむ(1)

 今日の新聞各紙に、作曲家・指揮者の外山雄三氏の訃報が出た。亡くなったのは11日で、92歳だった。1989年から2006年まで、17年の長きにわたって仙台フィル音楽監督を務めておられたことなどあって、その演奏に接する機会は多かった。
 ふと気になって調べてみると、確認できた仙台フィルの演奏会だけで25回も聴いている。音楽監督在任が17年であったことを思うと、25回は「も」ではないのかも知れない。しかし私には、1988年9月から1996年1月までの間、途中1993年1月の第90回定期を唯一の例外として、仙台フィルの演奏会に足を運ばなかった空白の7年半というのがあったから、私が直接知っている外山時代の仙台フィルは10年間である。それを思うと、25回はやはり「も」だという気がする。おそらく、私が最も多く実演に接した指揮者だ。
 単に地元オーケストラの音楽監督だったから、というのではなく、かなり積極的に好きな指揮者だったのだ。奇をてらうことなく堅実で、しかも特定の得意分野を持たず、どんな音楽でも完成度の高い演奏をする。思い出してみても、ベートーベンの「英雄」(シーズンオープニングコンサート、2005年)、「田園」(第126回=1997年)、ミサソレムニス(第196回=2004年)、マーラー交響曲第4番(第185回=2003年)といったドイツ音楽のみならず、ベルリオーズ幻想交響曲(第138回=1998年)、ショスタコーヴィチ交響曲第10番(第121回=1996年)や第6番(第178回=2002年)、バルトークの歌劇「青ひげ公の城」(123回=1996年)、プーランクのモノドラマ(歌劇)「人の声」(第136回=1998年)、更には外山氏自身の交響曲第2番の初演(特別演奏会「日本の現代作曲家」1999年)、ストラヴィンスキー春の祭典」(特別演奏会「日韓春の祭典」2002年)など、思い出深い演奏は多い。単に小器用とか、無難というのではなく、作曲家だからこその対応力なのだろう、と思っていた。
 退任の演奏会にも行った。2006年3月10日の第209回定期演奏会である。最後のプログラムであるブラームス交響曲第2番の演奏が終わると、氏は簡単な挨拶をした。「仙台フィルの事務局から呼び出されて『お前を解任する』と告げられた」という言い方をしたと記憶する。いかにも不本意な退任であることが伝わってきた。17年にわたって仙台フィルを率い、大きく成長させ、途中、運営委員長として仙台国際音楽コンクールの立ち上げにも尽力した。そんな人に対する扱いとして「解任」は敬意に欠ける。私は憤った。同時に、ファンの一人として、私にはなぜ彼が「解任」されなければならないのか分からなかった。単にフランス音楽中心へと路線変更がしたくなった、もしくは、パスカル・ヴェロという指揮者と出会った仙台フィルにとって、従来型の「怖い」指揮者である外山氏が目障りになり始めたということなのではないか?・・・その思いは今でも変わらない。
 「お別れに」と言って、アンコールに自らの代表作(名刺曲)「管弦楽のためのラプソディ」を演奏した(→この曲についての記事)。この曲も私は大好きだ。省略ありの短縮版であったことは残念だったが、この曲を、作曲者自身の指揮で聴くことができたのは幸せな体験だった。
 今年は仙台フィルの創立50周年である。それを記念して、これまで仙台フィルと関わってきた人物のリバイバル公演が組まれている。外山氏は、今年5月まで指揮者として活動していたので、仙台フィルが今年の予定を組んだ時点では、まだ現役であった。しかし、今年度の演奏会(定期+特別)出演者に氏の名前はなかった。唯一、10月の367回定期(山下一史指揮)に、「管弦楽のためのラプソディ」が登場することになっているだけである。高齢のため、東京から仙台までの移動も負担が大きくて呼べないということなのか、仙台フィルが呼ばなかったのか、自分を「解任」したオーケストラの指揮台に立つことを氏が潔しとせずに断ったのか、それは知らない。仕方ないなとも思ったが、一抹の寂しさを感じたのも確かである。
 私はかつて、「小林研一郎氏のこと、または日フィル系と新日フィル系」という一文を書いたことがある(→こちら)。フジテレビや文化放送から契約を打ち切られて苦難の道を歩んだオーケストラに寄り添い、支えた指揮者の一人として、外山氏の名前を挙げた。その外山氏には、『オーケストラは市民とともに 日本フィル物語』(岩波ブックレット、1991年)という著書がある。中村敬三氏との共著で、序文に相当する4頁を書いているに過ぎないのだが、このことは、氏と日フィルの深い関係を物語っているだろう。
 Wikipediaは、氏の項で「政治など社会情勢にも関心が深く、日本国憲法第9条及び『あたらしい憲法のはなし』に曲を付けた合唱曲も発表している」と書き、上のブックレットを紹介している。おそらく、批判的なものの見方をしながら上よりも下を見る、優しい目の持ち主だったのだと思う。日フィルとの関係はそのことを物語る。(続く)