小林研一郎氏のこと、または日フィル系と新日フィル系



 日本フィルハーモニー交響楽団新日本フィルハーモニー交響楽団の関係というのは、詳細については非常に分かりにくいのだが、基本的に、日フィルが賃上げ要求から音楽家として日本で初めてのストライキを行ったのをきっかけに、1972年にフジテレビから専属契約を打ち切られ、経営の危機に陥ったために労働争議を起こし、市民と歩む自主運営のオーケストラとして苦心惨憺、活動を続けたのに対し、約3分の1のメンバーが労働組合を離脱して、財界の支援を受けながら活動を始めたのが新日本フィルということになるだろう。あえて言わせてもらえば、自分たちの音楽と誇りとを大切にし、苦難の道を歩んだ日フィルに対し、より有利な条件を求めて節を曲げたのが新日フィルと言えなくもない。もちろん、私の趣味は明らかに日フィルである。いくら損でも、不器用でも、自分たちの誇りやポリシーを大切にするというのは、人間として大切なことだ。

 偏見なのかも知れないが、私の中では、指揮者についても、日フィル系と新日フィル系が存在する。日フィルが契約を打ち切られた時の指揮者(音楽監督)は故渡辺暁雄氏で、氏は、この後も苦難の日フィルを見捨てなかった。この系列に連なるのが、外山雄三氏であり、小林研一郎氏である。一方、日フィルを分裂させて新日フィルを作ったのは、小澤征爾氏であり、故山本直純氏であった。この系列に連なるのが、小泉和裕氏や井上道義氏である。故朝比奈隆氏も入るかも知れない。日フィル争議が終わった後の若手は、既に、そんなオーケストラの歴史を意識していないだろう。やはりどうしても、日本フィル系の方がヒューマニストが多いように見える。私が「世界のオザワ」を素晴らしいと思えないのは、こんないきさつを知ることによって氏に変なラベルを貼ってしまっているからか、こういう背景を持つ音楽家の卑俗な人間の臭いを、私の嗅覚が極めて敏感にかぎ取っているからであろう。

 と、こんなことを書く気になったのは、最近『読売新聞』の「時代の証言者」という連載で、小林研一郎氏が自分の人生を振り返っているのを興味深く読んでいて、第17回となる今日の記事にひときわ深い感銘を受けたからである。


「そんな状況(平居注:自主運営による厳しい経営状態)ですから、(日フィルの)音楽監督になる時も、とてもためらいました。ただ、僕の考える音楽監督の役目は、音楽を中心にコントロールすることではありませんでした。

 オーケストラは天才の集団です。難曲でも1回通しただけで本番とほとんど変わらない仕上がりを見せ、音楽の方向を察知する早さは無類。その彼らに音楽のことを言って、何になるでしょう。むしろ、経済的に潤い、ゆとりのある生活こそが、天才たちのエネルギーを爆発させ、すさまじい演奏につながると考えたのです。

 そこで企業を回り、援助をお願いする日々が始まりました。(中略)でも結局、楽員の給料を増やすことはできませんでした。何も役に立たなかったという苛立ちや苦悩から、07年に音楽監督を辞任しました。それでも、日本フィルの役に立ちたいという気持ちは、今もまったく変わっていません。」


 小林研一郎氏が日フィルの音楽監督になったのは、日フィル争議が終わったはるか後の2004年のことだ。しかし、氏は故渡辺暁雄氏が恩師であったこともあって、それよりもずっと前から日フィルと関係を持ち、1988年には首席指揮者に就任している。一貫して、経営状態の極めて悪い日フィルに寄り添ってきていることになる。

 氏がかつて仙台フィルの首席客演指揮者を務めていたとか、日フィルが全国の人々と連帯するため、地方公演を他のオーケストラよりも多く行い、仙台にも毎年のように来ていたといった事情で、私は何度も氏の演奏会に足を運ぶ機会があった。ただ、やはり私が氏の演奏会のチケットを繰り返し買ったのは、単に有名な小林研一郎という指揮者が来るという理由ではなく、その音楽が非常に魅力的だったからである。

 「炎のコバケン」などと呼ばれ、その熱気あふれる演奏が人気の小林氏だが、先日(7月14日)「完全燃焼」をこき下ろしたとおり、そんな力一杯の演奏が氏の本質だと、私は思わない。弱い人に優しく、音楽に誠実な人柄が、結果として熱気あふれる演奏を生む、ということだろう。恐い顔をして指揮棒をぶんぶん振り回すから楽員が言うことを聞くのではなく、氏の人柄と音楽に惚れて、楽員が熱気あふれる演奏をすることになるのだと思う。楽員が見ていたのは、指揮棒ではなく、楽員の生活のために企業に頭を下げ歩く、氏の背中だったかも知れない。

 人柄などというものは、直接その人と関わったことがなければ、決して分かるはずのないものなのだけど、やはり、音楽はそれを雄弁に物語っているような気がして仕方がない。