『冼星海年譜』に表れた変化

 中国共産党建党100周年とは必ずしも関係しないが、ひとつのきっかけとして、最近読んだ中国関係の本2冊について、今日明日、少し感想めいたものを書き記しておこうと思う。
 もう2~3ヶ月前の話になるが、査太元編著『冼星海年譜』(香港中大合唱協会刊、2020年)という本を読んだ。「冼星海(1905年~1945年)」とは、言うまでもなく、かつて私の研究テーマだった作曲家である。しばらく前、1月頃だっただろうか、ある人の紹介によって、著者が私に送ってくれたものである。
 何しろ、A4版、本文だけで500頁にもなる大著である上、2段組で字が小さい。重くて電車の中に持ち込む気にもならないし、自宅でそうそう時間も取れないので、斜め読みに近い読み方をしていたにもかかわらず、相当の時間を要した。
 中国でも、近代史に関して、これだけ科学的に考証した本が出されるようになったのか、との驚きというか、感銘が大きかった。また、査氏は1987年生まれの若い研究者であるが、出身が台湾で、学位を取るまでは台湾で学んだ。その後、江西省の九江市にある九江学院という大学で副教授の地位を得、この本が出版されたのは香港だ。親は元々江西省の出身らしいが、それでも、台湾、大陸、香港という制度的に異なる場所を行き来してキャリアを重ね、本を出せるということに驚く。
 この本は、一つ一つの事跡について、その根拠となる冼星海自身の叙述と、第3者の証言や記録とを分けて引用した上で、査氏の見解、すなわちこれらの史料からなぜ見出しのような事跡が導けるかという「按語」を付すという形を取っている。1次史料の発掘もそれなりに行っている上、当時の新聞による傍証も行っていて説得力がある。
 私が見つけられていて、査太元氏が見つけていない史料もあるし、事跡の見落としもあるが、全体として見た場合、査氏の研究の方が優れていると感じた。私にとって痛恨だったのは、ひとつに冼星海の母親・黄蘇英がいつ死んだかという点である。依拠している史料は同じなのだが、結論がずいぶん違うので、改めて史料を確認したところ、査氏の結論が正しい。私が誤読(早とちり)したのである。拙著『冼星海とその時代』巻末の年表に書いた「1948年」と違い、黄蘇英が死んだのは、査氏が書くとおり1945年であろう。
 また、ソ連で書かれた大きな管弦楽曲について、査氏は中国狂想曲=1950年11月14日、第1交響曲=1956年7月28日、1956年7月28日、第2交響曲=1955年11月6日を初演とするが、これら冼星海死後の出来事については、突然、それ以前と違って、なぜか一切典拠が示されていない。私はそれらの初演を1987年10月のこととしている。査氏は史料として演奏会のプログラムか何かを持っているのではないかと推察する。だとすれば査氏の方が正しいということになるのだが、私が典拠とした『音楽愛好者』という雑誌(上海音楽出版社)1987年第6期(12月27日発行)には、確かにその年の10月19、20日に、『冼星海全集』編集との関係でそれらを集中的に初演したとの短信記事が見られるので、私がそれを信じて間違ったとしても仕方がない(ただし、私は注に典拠として『音楽愛好者』の短信を挙げず、卞祖善「珍奇的歴史遺産」という『人民音楽』1985年第10期所載の論文を挙げている。これもやはりエラーである。それら二つのコピーを重ねて綴じていたために、短信を「珍奇的歴史遺産」の最終頁と誤認したらしい。そもそも、1987年の「初演」の話が、1985年の論文に出ているはずがない。買って下さった方に申し訳ないので、恥を忍んで公表しておく)。
 従来、中国における冼星海関係の論文類は、共産党による評価に沿った形で、まるでそれをなぞるような翼賛的な書き方がされていた。戴鵬海の論文のように、それを離れて科学性を感じさせるものもあったにせよ、イデオロギーとは関係のない史実について多少の議論をしていたに過ぎない。裴毅然という、科学的かつ共産党に批判的な近代史研究者は、数年前にアメリカへの移住を余儀なくされた(・・・のかどうか、移住の経緯は不知)。

 そんな中で、このような著作が現れたことは、私に中国の学術が大きく変化しつつあることを感じさせた。もっとも、査氏の著作も、戴鵬海と同様、「年譜」というものの性質もあって、冼星海の音楽の価値に疑いを差し挟むなど、共産党の冼星海評価に楯突くものではない。したがって、共産党が学問の自由について寛容になったことを意味するわけではない。それでも、私にとっては十分新鮮に感じられるほど、それ以前の中国の本とは趣が異なるのである。いずれ、査氏と会える日も来るだろう。その時は敬意を持って語り合いたいと思う。