12月16日『河北新報』「持論時論」の記事



 12月16日付『河北新報』「持論時論」という所に、私の作文が掲載された。先月28日にこの場に書いたものの焼き直しである。タイトルは、新聞社が付けたものであって、私が付けたものはボツになったらしい。その他、少し新聞社によって手が加えられているが、事前に校正があり、私が了承したものなので、『河北新報』が手に入らない人のために、新聞バージョンでこの場に掲載しておくことにする。


『子供を取り巻く文化 「禁止」や「制限」時に必要』


 いじめや低学力など、今の学校に山積している問題に、現場で対処している人間の一人として、徒労感を感じるのはなぜだろう?それは、いくら頑張っても結果が出ないというよりも、むしろ、原因となっているものがたくさん見えているにもかかわらず、それらを放置したままで、際限のない末端処理に追われているからだと思う。原因の一つとして近ごろ特に思うのは、子どもたちを取り巻く文化の問題である。

 最も分かりやすいのは携帯電話だ。電車に乗ると、子どもと言わず大人と言わず、ひたすら携帯電話の画面に見入っている人の姿を多く目にする。高校の教室でも同じである。授業が終わった瞬間に携帯電話を開く。授業中でも気になるらしい。携帯をしまわせたり、取り上げようとして起こるトラブルは、どこの高校でも日常茶飯事だろう。

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 10年余り前には、携帯電話の学校への持ち込みを禁止しようといった議論が行われたが、今は実行不能な空論であることが分かっているので、話題にさえならない。「節度ある使用」さえ、指導はなかなか難しい。子供から携帯電話を取り上げたら、精神の安定を失い、何らかの事件に結び付く懸念さえある。

 この状態の中で、勉強しろと言うのは無理がある。じっくり落ち着いて理解し、記憶し、考え、創意工夫をするといった、人間の成長にとって大切な作業とは正反対のものばかりがそこにはある。メールの乱用による直接的コミュニケーションの衰退は、人間関係のつくり方に関係するという点で、さらに大きな問題かも知れない。思えば、進化したおもちゃやゲーム機、アダルトビデオなど、子どもが安易に強い刺激を得られるものは、その弊害を考えることなく、実質的に野放しにされ、しかも利用者層が低年齢化しているように見える。

 防犯の観点から子どもに携帯電話を持たせるとしても、機能を最低限に制限することはできるはずである。にもかかわらず、そうしないどころか、スマートフォンのように高機能化した物が売られ、欲望を刺激する。人が喜ぶ物はいいものだという単純な発想がある上、利益が絡んでおり、社会全体としても、お金になるものに文句を言えない雰囲気が存在するからである。つまり、私たちは、便利さと利益にばかり目を奪われた結果、より大きく構造的な不利益を生み出しているのではないか。

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 経済は大切だ。しかし、それだけが大切なのではない。大切なのは、お金ではなく幸せである。お金は、幸せを実現する手段として有効な場面でだけ価値を持つ。私たちは東日本大震災によって、人と人とのつながりや、平凡な日常生活の大切さとありがたさ、そしてそれらこそが本質的な幸せであるということを学んだはずである。

 起こってしまった問題をどのように解決するかを考えるのではなく、どのようにして問題を起こさせないかを、もっと真剣に考えたい。そのためには、子どもたちを取り巻く文化環境を見直し、地道で基本的な作業に忍耐を持って取り組ませるべきである。麻薬と同じで、人間を内側から駄目にするものに対しては「自由」を言い訳にせず、禁止や制限といった措置を取ることが必要だ。賭博が盛んな大人の世界についても問題は同様だが、特に子どもについてはなおさらである。