12月16日付『河北新報』「持論時論」裏話・・・パチンコ等について



 昨日、12月16日付『河北新報』掲載の拙論について、新聞社の手が加わっているが、校正段階で私自身が了承したものである、と書いた。実は、一カ所だけ、私の意見が通らず、積極的に了承したつもりもない場所がある。紹介しておこう。

 それは、最後の一文で、「賭博が盛んな大人の世界」という所の直前に、私の原稿では「パチンコなどの」という一節が付いていた。校正でここが削除されていることに気付いたので、復活を求めた上で、以下のような「説明」を付記した。少し嫌味な書き方だな、とは自覚していたが、これくらい書いておいた方がいいかなと思い、あえて送った。

 「パチンコも実は賭博であるということを、さり気なく訴えたいと思っていたので、出来れば(この表現を)残して欲しい。ちなみに、『韓国はなぜ、パチンコを全廃できたのか』(祥伝社新書)では、広告料の問題があるので、新聞はパチンコ批判が出来ないと訴えている。本当かどうか・・・?」

 それに対する返信は以下の通りであった。

 「パチンコについては、実質的にはともかく、法的には(非合法な)賭博として扱われていないので、削らせていただきました。広告料との絡みは、ご指摘を受けて、そのような議論があることを思い出しましたが、今回、私の頭の中にはありませんでした。削除したのは上記理由によるものです。ご了承くださるよう、お願いいたします。」

 さて、こうなると、実は拙論の新聞バージョンも、「パチンコなど」が削除されたくらいで腹を立てるどころか、新聞社の寛容な計らいに頭を下げねば、との思いが強くなる。と言うのも、非合法な賭博でなければ批判に値しないのであれば、競馬、競輪、競艇なども問題にならず、そうなると、果たして大人の世界で賭博が「盛ん」だということにはならないような気がするからである。いくら今の日本でも、非合法な賭博は「盛ん」というレベルにはないだろう。むしろ、実質的な賭博が合法もしくは黙認されているからこそ問題なのである。

 私はパチンコ、競馬、競輪、競艇といった賭け事が、日本では無神経に許されすぎていると思っている(トトカルチョなどの賭け事文化が日本より激しい国が多数あることは承知しているが、相対的に考えるべき問題ではないので今は触れない)。パチンコについては、出玉を「特殊景品」に交換し、店の人が教えてくれない暗黙の交換所で現金に換えるなどという滑稽な脱法行為が、なぜこれほど公然と放置されているのか理解に苦しむ。町の活性化のために場外(馬、車、船)券売り場を誘致しようなどというのは、いくら苦し紛れで「藁をもつかむ」とは言っても、恥を知らなさすぎる。宝くじやサッカーくじの類だって、それが許容範囲かどうか常に問い直していなければ、怪しい領域に突入してしまう。私は少し危険を感じる。

 賭け事は、間違いなく金銭価値に対する感覚を狂わせるし、麻薬的な作用がある。昔のパチンコのように、勝ってチョコレートかタバコを数箱手に入れ、ニコニコ笑っていられるレベルが許容範囲というものであって、今のように数万円単位で金が動くようになると、もはや社会を内部崩壊に導く凶器である。

 11月28日の記事でも、上でも問題にした『韓国はなぜ、パチンコを全廃出来たのか』によれば、日本でパチンコが放置されているのは、パチンコの台を検査し使用許可を与える団体に、警察官OB(天下り)がたくさんいること、政治家は献金、新聞・テレビなどのメディアは広告(CM)料によって利益を得ているために、本来それを批判すべき立場にある人たちが何も文句を言えないこととによる、と言う。真にその通りであろう。

 子供を取り巻く文化汚染の背後には、大人の文化汚染がある。パチンコもその大きな要素の一つだ。一人一人が、何が人間にとって本当に大切なのかを考え、地道に汗を流して稼いだ収入で、つましくも平凡な生活に幸せを見出していこうとしなければ、子供たちの健全な成長は決して実現しない。