やっぱり携帯電話問題は深刻だ



 先週末は、教職員組合の「教育講座」という学習会に参加していた。なにしろ秋保グランドホテルという立派な温泉宿に泊まるので、「行くぞ」と言えば、子どもたちも大喜びで付いて来る。かくして、これは我が家の恒例行事として定着してしまった。私や妻が、どの分科会で何のお勉強をしていようが、子どもは子どもで勝手に遊んでいてくれるので、結構な家族旅行である。

 ところで、私は実行委員という立場で、10月くらいから準備に関わってきたのだが、昨日行われた「学校づくり分科会」というのでは、第2分科会というところを主宰していた。「子どもをめぐる環境」というのがテーマである。私は、携帯電話と新聞の問題を取り上げることにし、某携帯電話会社と新聞社の方に来ていただいて、そのお話を聞いた上で、情報と意見の交換をすることにした。何しろ、携帯電話についてどのような指導をするかというのは、おそらく、どこの学校でも、大変頭の痛い問題なのである。

 一方、同時に新聞社の方に来ていただいたのは、携帯電話(スマホ)が普及するのと反比例する形で、新聞離れ、活字離れが進行したという前提の下、携帯電話会社と新聞社に直接バトルをしてもらおう、などという悪意があったわけではない。あくまでも、私自身の問題意識(→参考)として、子どもを取り巻く文化環境の問題として、高校教員にいろいろ考えて欲しいし、そのための材料を提供するというのが目的であった。

 外部講師の方のお話しは、両方とも非常に分かりやすく新鮮で、考えさせてくれるものであった。出席した18名も、興味深く聴いたのではないかと思う。

 意外だったのは、携帯電話会社の方の話のほとんどが、携帯電話の危険性に関わるものだったということだ。「恐い話ばかりで申し訳ありません」と言いつつ、携帯電話でどのようなトラブルに巻き込まれる可能性があるか、それを避けるために何が必要か、みたいな話がほとんどであった。携帯電話のメリットを訴えるだけでは後ろめたいので、それらに言及した、という感じでもなかった。会社の人の認識でも、携帯電話は非常に危険なものだ、しかし、今それをみんなが持つという流れを止めることが出来ない以上、その危険を回避するための啓蒙に努めるしかない、ということらしい。

 参加者同士の意見交換の際、私が3年前に携帯電話を解約してスッキリした(→参考1参考2参考3)ことに触れた上で、私は「メリットが些細である割に、デメリットは深刻だ。なぜそんなものを、トラブル回避とその啓蒙(指導)のためにこんな大変な思いをしながら持たせ続け、持ち続けなければならないのか理解できない」みたいな発言をした。聞けば、どの学校でも多くの高校生が携帯中毒であるが、「授業中は使用禁止」という以上の規制をかけている学校は、19校中1校だけだった。その1校とて、「始業から放課までは使用禁止」というもので、教員が見ていないところでは守られていないだろう、とのことだった。「授業中は禁止」よりは少しマシという程度、と思われる(それでも「マシ」であることは素晴らしい!!)。自由を尊重するという高邁な考え方に立つのでもなく、現状について問題なしと思っているわけでもない。要は「赤信号みんなで渡れば恐くない」という強力な流れを前に、為す術もなく押し流されているのである。

 今日、職場でそんな話をしていたら、私のような過激な「携帯電話嫌い」では必ずしもない人も含めて、現状はまずいぞ、という話を盛んにして盛り上がった。

 「あらゆる破滅は内部崩壊である」というのは、もともと誰が言い出した言葉か知らないが、名言だ。私もいろいろな文章の中で何度か使ったことがあるように思う。携帯電話は正にその典型になりそうだ。人間を内側からぼろぼろにする凶器である。哲学的な思考力を失った人間が、上滑りな正義感に燃えて過激な言論を匿名でまき散らし、やはり哲学的な思考力を失った人間が気分で同調して、世の中を間違った方向に動かす。それが目に見えるようだ。

 今日、誰かが言っていたが、原子力と同じ、人間にとってはパンドラの箱だったわけだ。いくら現実問題として抗しきれないとは言っても、タバコや酒、麻薬と同じなのだから、18禁、更に免許制などの手は打つ気さえあれば打てるはずなのである。それをしないのは、する気がないからであって、断じて「できない」のではない。そして「する気がない」のは、目前の快楽に溺れる人間の性質と、携帯電話でもうけている人間がたくさんいるからであろう。温暖化を止められないのと同じ理屈だ。少し遠い将来が見えていれば、今、利益を犠牲にして踏み止まらないことの恐ろしさに、身震いするに違いないのだけれど・・・。

 外部講師のお話が面白く、どの学校でも深刻な問題である割りに、その後の議論は盛り上がりに欠けた。これが、あきらめでないことを祈る。新聞については、いずれまた・・・。


(補)書き終えてから、以前似たようなことを書いたことに気付いた。(→こちら