これがやがて大きな差となる



 最近、我が家の子どもたちを取り巻く環境について気になることがある。関係者には申し訳ないが、私がここであえて取り上げるのは、広く社会全体の傾向・問題として考えてもらいたいからである。それほど、世の中には同様の例が満ちあふれている。

 もうしばらく前のことになるが、野球の練習に娘を迎えに行って帰る途中、明日は何時から練習なのか尋ねると、知らない、と言う。そう言えば、妻がスマホで連絡を受け、娘や息子にああだこうだ言っている場面に出くわしたことがある。子どもは子どもで監督から指示を受けているのかと思っていたら、もはやスケジュールに関して子どもはノータッチらしい。それだけではなく、あらゆる連絡(とても必要とは思えないことまで含めて)が母親のスマホを使って行われているようだ。

 だから私は携帯電話やスマホが嫌いなのだ、と改めて思う。持っていれば、便利だ便利だと言って、本当にロクでもない使い方しか考え出さず、しかもそれがいいことだと思って疑わない。

 監督が子どもに、「明日は8時に学校集合、練習用ユニフォームで昼食を持って集合しなさい。」と言い、帰宅した子どもがそれを親に伝言し、「お弁当作ってね」と頼むのと、親元にメールが回り、親が子どもに「明日は学校に8時集合。練習用ユニフォーム着て、お弁当思っていかなきゃダメだからね」と言うのとでは、翌日の練習との関係では内容的に同じでありながら、実はまったく違う。

 伝言するというのは、相手の言葉を理解し、記憶し、改めて言葉にして人に伝えるという知的な作業である。脳を刺激し成長させる要素はたくさん含まれるだろう。親に弁当を作ってくれとお願いするのと、親から弁当を持って行けと指示されるのでは、物事に取り組む姿勢において大きな差が生じるはずである。言うまでもなく、前者なら、自分たちの趣味のために親を煩わせる→申し訳ない→ありがたいという思いが生まれるだろうし、後者なら、親にやらされていると思うか、親はやってくれて当たり前という意識を生むだろう。些細な違いに見えて、その積み重ねによって生じる違いはあまりにも大きい。
 しかも、どちらのやり方が取られるにしても、それが集合時刻や弁当の問題に限られるということはあり得ない。当然、その組織におけるあらゆることが、同じ思想と姿勢によって行われることになる。そもそも、子どもをスポイルしたスマホの連絡がなぜ必要かと言えば、練習や試合の時間と場所が、親による車の送迎を前提として決められているからである。そうして大人は子どもを囲い込み、子どもは野球以外に一切することがない状態が作られている。子どもだけで試行錯誤をしながら自分たちで練習を組み立てたりたり、けんかをしながら守備位置や打順を決めるなどという機会は皆無に等しいはずだ。この延長線上に、高校で見ていて子どもをダメにするとしか思えないような親の過干渉(→こちら)や過保護(→こちら)がある。高校生に指示待ち人間が多く、自分の頭で考えて動けないというのも、このような成長過程によるのだと近頃よく分かる。それでいて、将来いじめや引きこもりを始めとする様々な問題が子どもに起こった時には、因果関係が不明瞭なこともあって、誰もそのような骨抜きの子育てを省みたりせずに、学校や教育委員会のあら探しをするのだろう。

 前任校は、私が行く前の年まで、どこの学校にでもある朝のSHR(ショートホームルーム)というのがなかった。私が行って2〜3年は、やっぱり廃止しよう、という議論が職員会議でくすぶっていた。経験者が言うには、SHRがなければ担任は逆に大変だ、楽なのはSHRで全員に連絡事項を伝えることである、職員室前の伝言板や教室内の掲示で連絡しようと思うと、なかなか連絡が徹底しない、個別の話をするタイミングをつかまえるのも大変だ、ということだ。にもかかわらず、彼らがSHRの廃止を主張していたのは、SHRを設定することで、生徒が教員の指示を待つ、すなわち受動的になってしまった、ということによっていた。議論の結果、結局、SHRの廃止ということにはならなかったけれど、この議論は印象に残った。

 私はよく「文化の価値はかけた手間暇に比例する」(→こちら)あるいはもっと簡潔に「手間は価値だ」という言い方をし、「利益は目前に、より大きなデメリットが将来に」と言う(→こちら)のだけれど、本当にそうなのだ。便利=楽で快適は人間の成長と人類の進歩にとって真の敵である。そして、便利や快適の価値を疑わない、つまり目前のメリットにしか考えが及ばないというのは、なんとも困ったことだな。最低限、そういうものを子育ての現場に持ち込んではいけない、とつくづく思う。