全ては大人から始まる

 学校内のみならず、あちらこちらで「最近の子どもは」とか、「今時の若者は」という言葉を聞く機会は多い。もちろん、そのほとんどが否定的文脈でだ。確かに、高校教員などをしていると、学力や自治的能力を中心として、高校生の「実力」は右肩下がり。とにかくひたすら下がり続けている気がして恐ろしい。
 だが、私は昨年度末、2学年主任として最初の学年会(スタッフ会議)で自分の考えを印刷して配った際、冒頭に次のように書いた(→全文はこちら)。

「大人より先に子供が変化することはないと考えます。生徒の問題(勉強しない、受動的だなど)が私たちの中にないかどうか、常に一度立ち止まって考えてみたいものです。」

 子どもの質が変化したと言われる時、大人は棚上げにされることが多い。棚上げにはしない人でも、「鶏が先か、卵が先か」という言葉を持ち出し、因果関係については避けて通るように思う。だが、私にとっては自明である。大人が先だ。世の中は何と言っても大人が作っているのだから、当たり前ではないか。大人が先でないとすれば、神による社会全体の構造的変化、つまりは「大人と子どもが同時」と言うしかない。それならあり得る。
 ただ、質の低下ということを問題にし、ただの嘆き節ではなく、ではこれからどうしていこうかと前向きに考えるのであれば、やはり、まずは大人の現状を考えるしかないだろう、と思う。
 なぜ、こんなことを書くかと言えば、先日、「在宅勤務」に関する職員打ち合わせで、自宅での勤務開始時に教頭にメールを送れ、という指示を聞いて、あることを思い出したからである。
 それは、3年前の修学旅行の時のことだ。旅行3日目に、班別研修というものが設定されていた。生徒が3~5人の班を作り、自分たちで計画を立て、京都市内を見物して歩くというものだ。おそらく、ほとんど全ての学校で、同様の企画があるはずである。
 私が驚いたのは、その時の学年主任から、昼食を取る時に、生徒から担任に一度連絡を入れさせよ、という指示が出たことである。私は、「え?!どうしてそんな必要があるの?」と愕然としたのだが、当時、異動1年目の副担任だったこともあり、正担任が誰も異を唱えない中で文句を言うことはできなかった。
 学校現場でも、いつ頃から始まったかは知らないが、「ホウレンソウ」ということがよく言われる。何事においても管理職に対する「報告・連絡・相談」を欠かすな、ということである。もともとそれを言い出したのが、某証券会社会長だった山崎富治という人であったことは、2014年4月16日に氏が亡くなった時の新聞訃報で知った。
 私が採用されてから数年後に始まった「初任者研修」で、出張の際は、用務が始まる前と終わった後で、必ず教頭に電話でその旨連絡するようにという指導があった、という話を聞き、その時も驚愕した。そんなことを徹底させれば、大切なこととそうでないことを判別することが出来なくなり、更には物を考えるということがそもそも出来なくなるではないか。
 だが「ほうれんそう」は、従順な人間を作るという意味で管理者にとって便利だっただけではなく、連絡・報告・相談さえしていれば、管理者に責任を預けられるという点で、下位の人間にも好都合だったためだろう。世の中にずいぶん浸透してしまった。今や、それに疑問を持つことが出来る人さえ少ない。
 大人は自分がやらされていることを、子どもに対してするようになる。そうして、子どもをダメにしていくが、子どもがダメになったと気付くことは出来ても、その原因が自分たちにあることにはなかなか気が付けない。「傍目八目」というやつである。どうも私にはそう思える。