新聞の読み方は教える必要があるか?



 2月21〜22日、秋保温泉で高校教員の学習会に出た、という話は既に書いた(→こちら)。その記事は、携帯電話問題限定で、いずれ新聞についても・・・と書きながら、10日以上が経ってしまった。

 携帯電話が1億4千万台を超え、子供や重病人、老人など、携帯電話を使えない人たちを除くと、1人2台時代に着々と近付いている一方で、新聞の発行部数は、過去15年間で、業界第2位の朝日新聞の発行部数に匹敵する800万部あまり減少した。恐ろしいことだと思う。

 某新聞社から講師として来て下さったSさんは、この現実に危機感を露わにする一方で、大人が子供に新聞の読み方を伝えてこなかったことを、反省点の一つとして挙げた。その上で、Sさんが話した「新聞の読み方」とは、まず見出しに目をやり、興味関心の持てる記事だけを選んで、記事に目を通すという、至って当たり前の方法だ。聞いていた高校教員からも、それは大切な指摘だ、みたいな声が出たが、私は、そんなのいちいち教えなければならないことかな?と、例によって少し白けた気分で聞いていた。

 翌週(=先週)は、1・2年生の定期考査があった。私の隣に座っているA先生が、生徒に点数をやろうと思って、日本地図から、水産業に関係の深そうな県をいくつか選んで県名を書く問題を出したところ、書けない生徒が多いと頭を抱えていた。日本の白地図に県名を書き込む授業をしたわけではないが、常識的に知っているだろう、授業で教えるまでもないと思った、というのがA先生の反省の弁である。私は共感し、同情する。

 世の中には、わざわざ教えてあげなければならないことと、当たり前の学習意欲というか、問題意識というか、自分が知らないことに反応する感性というかを持っていれば、意識しなくても自然に身に付く、教える必要のないこととがある。人に何かを教える時には、感覚的・常識的にそれらを見極めることが必要だ。そうでなく、全てを教えようとすれば、逆に、話の中で大切なことが何かが分からなくなってしまう。

 新聞を手に取る機会があれば、全ての文字に目を通すことは難しく、その必要もないことくらい分かるし、効率よく情報を仕入れるために、見出しを手掛かりにしながら、程よく飛ばし読みする技くらい簡単に身に付くはずである。問題は、以前に比べると、大人が新聞を広げている光景が少なくなってきたこと、それが「当たり前」ではなくなりつつあるということだ。

 だが、何でもかんでも教えてあげなければならない、生徒が知らないのは教師の責任である、とすると、人間の学ぶ力は育たないし、学ばせたところで本当の学力(生きる力)にはならない。それはまるで、法の網の目を際限なく細かくして、悪を根絶しようというのに似ている。無理というものである。「これをいかんせん、これをいかんせんと言わざる者は、我これをいかんともすることなきのみ(どうしよう、どうしようと言わない者は、私はその人をどうすることもできない=主体的に悩まない人を指導することはできない)」(論語)。学びの本質は、この言葉に尽きる。

 「鶏が先か、卵が先か」?鶏が先である。大人が新聞を読み、そうして情報を仕入れ、是非善悪を考えることが当たり前だという雰囲気を作ること、主体的に学び続け、携帯電話に振り回されないこと・・・そうしてこそ、子供がそれを「当たり前」と感じ、真似をするようにもなるだろう。子どもの姿に、自分たちが映っていることを肝に銘じなければ・・・。