親の責任をともに考える



 ISによる日本人殺害事件の報道が下火になったと思ったら、今度は日本国内で相次ぐ若年層による殺人事件だ。子どもといる時に、テレビのニュースを付けていて、社会に関する様々な問題意識を持つきっかけになって欲しいという思いと、子どもに変な影響があったら困るなぁ、という思いが葛藤する毎日が続く。少年犯罪は全体として減少しているのに、若者が続々と狂ってきているように感じられるのもまずい。

 さて、川崎市の中学一年生が殺された事件について、報道を見ながら本当に不思議に思うことがある。家庭の問題が一切と言ってよいほど無視されている一方で、学校を始めとする公の責任が盛んに取り沙汰されている点だ。

 今年に入ってから被害者は登校しておらず、担任は繰り返し保護者に連絡を取ろうとしていたが、連絡はつかなかった、5回家庭訪問をしたが会えなかった、という。深夜の外出もしばしばで、顔にあざを作っていたこともあったらしい。どう考えても、第一に問題を感じて、対応を取らなければならないのは保護者だ。

 今日の『河北新報』では、「暴力 学校の対応後手」という中見出しが付けられていたが、記事を読む限りでは、私には学校の対応のどこに遺漏があったのか分からない。そして、文科省は連絡がつかない生徒の全国調査をして、何かしらの対応をすると言う。

 家庭という閉ざされた領域に触れることは難しい。しかし、その問題を抜きにして、公が責任を引き受け、教育力・監督力のない保護者の肩代わりをしようとすれば、ことは際限のない悪循環に陥る。世の中は、教育の一切に公が責任を持つものと誤解し、保護者は責任を放棄する。これは既に学校で起こっている現象だ。

 例えば、制服や頭髪の指導がある。どこの学校でも頭の痛い問題だ。私が不思議なのは、化粧をしていたり、改造制服を着ていたり、明らかに学校の規定に違反する頭髪をしていたりしても、親がそのまま家を出しているということだ。更には、火事を起こすと困るから、タバコは見える所で吸えと指導する親、先生に見つからないように乗りなさいと言って、車やバイクを買い与える親なども、高校教員で見聞きしたことがない人はいないだろう。学校や教育委員会に身勝手な難癖を付けてしつこく批判を繰り返す、いわゆる「モンスター・ペアレント」の存在は話題になることも多いが、それは非常識と思える保護者の部分集合に過ぎない。生徒に問題があれば、いかにも学校の責任だとして電話を掛けてくる人もいる。

 マスコミが、面白半分に、当事者(主に加害者+被害者)たちの家庭内のことについて取材し、報道するのはよくない。まして、最近とみに多い疑似正義漢が、当事者たちを袋だたきにするのは言語道断である。

 当事者の親にも、やむにやまれぬ様々な事情があることもある。多くの問題を抱えている生徒の親に会って、なるほど、この親にしてこの子ありだな、と思うことがある一方で、親がこんなに立派なのに、なぜその子どもがこれほど問題を抱えているのだろう、と思うこともある。更にその逆、すなわち、親が困った人なのに、子どもはどうしてこれほどまともなのだろう、と思うこともある。親と子どもは関係あるような無いような、だ。だからこそ尚更、若者が大きな罪を犯した報道に接した時に、自分の子どもの顔を見ながら、自分の子どもがそうなったらどうしよう、と戦慄するのである。

 子どもについての責任は、先ず第一に親が負うべきだ。だが、子どもをどのように育てるかは、誰にとっても悩ましい問題だ。マスコミや国が、子育てのマニュアルを提供できるはずはなく、提供しようとすべきでもない。親自身が、ある種の危機感を持って真剣に模索するしかないのである。そのことに対する問題提起だけは、繰り返ししつこく行われなければならない。これは、マスコミの社会的責任のひとつではないだろうか?

 当事者の親について暴き、断罪するのではなく、事件をきっかけに全ての親が子育てを考えよう、他人事とは思わずに、我が身にも起こり得ることとして考えよう、そんな意味で親の責任に触れた報道が優先的に為されてこそ、公は公で自分たちの問題を考える、ということが健全な意味を持つ。公を批判することで、自分たちの責任意識を薄れさせてはならない。