親離れ、子離れ



 埼玉県の高校の先生が、自分の子どもの入学式に出席するために、勤務先の入学式を欠席したことが問題になった。私は最初、人から教えられてネットでその記事(『埼玉新聞』)を読んだが、全国紙で記事を見なかったので、全国紙となれば「この程度のこと」は記事にしないということなのだろうと思い、少し安心していた。そうしたところ、4月23日の『朝日新聞』にけっこう大きな記事が出たので、少し触れておこうと思うようになった。

 記事によれば、入学式に担任がいないことに気付いた新入生や保護者から不安の声が上がり、その日のうちに、2名の保護者が県教委に文句を言い、翌日には「刷新の会」の県議が、「倫理観が欠如している」という担任批判をフェイスブックに書き込み、これらをうけて、4月11日の校長会で教育長が「注意」をした、という。

 記事が簡略なので、問題とされた先生の家庭や勤務校の状況が分からない。それらによっては、多少評価が変わるかも知れない。以下は、そのことを断った上での私の思いだ。

 一般的な状況で考えると、私がその先生の立場であれば、迷うことなく勤務校の入学式に出ただろう。しかし、それは自分の子どもに対する愛情が希薄なわけでも、職業意識が高いわけでもない。「入学式」自体をたいしたものだと思っていないからだ。「式」が好きな人を見ていると、ひどく「厳粛」であることにこだわり、私にはそれが思想的な形式主義の表れに見えるし、日の丸・君が代闘争に表れたとおり、「式」は、ナショナリズムもしくは政治支配の象徴的な道具になりかねないという危うさを持っているのも常に感じる。なに、入学式に出なかったからといって入学が許可されないわけでもあるまいし、通常の1日と同様に、子どもは一人で学校に行かせ、自分は出勤する、というので何の不都合もあるまい、と思う。

 『朝日新聞』でも指摘されていたが、この問題の背景として最も重要なのは、親の子に対する関与が過大である傾向である(東大大学院教授・本田由紀氏のコメント)。自分が担任するクラスの生徒を放り出して、小学校ならまだしも、高校に入る息子の入学式にわざわざ出なければならないのか、とも思うし、担任が式にいなかったくらいで、どうして親が大騒ぎしなければならないのか、とも思う。更には、そのような親の性質によって、子どもも自立できなくなっているのが問題だ。今から高校に入って勉強しようという年齢の子どもが、誰も教室に来ないというわけでもなく、その日だけ担任がいないくらいで、どうして不安を感じなければならないのだろう。県議のフェイスブックは、政治家が大好きな「公務員(特に教員と警察官)バッシング」だと思って無視した方がよい。

 最近は、大学の入学式にも、ほとんどの親が出席するという。大学によっては、入学式当日に、保護者のための就活セミナーを開くという話も聞いたことがある。私などは、受け持ちの最初に、「自分でできることは自分でさせて下さい」と親に強く言うことにしているのだが、それでも、生徒自身が私に言えばよいことについて、わざわざ親が電話をかけてくることがよくある。私は、「親がわざわざ電話を寄越すようなことじゃないでしょう。本人に直接言わせて下さい」と言って電話を切る。少子化のせいなのか、無駄な豊かさのせいなのか知らないが、とにかく保護者の過干渉、子どもが自立しない傾向は強いのである。

 この問題が公になった後、2日くらいの間に埼玉県教育局には賛否の意見が86件寄せられ、そのうち、教諭の行為(欠席)に理解を示すものが52%、校長・教育長を批判するものが37%、教諭を批判するものが10%だったらしい。教諭を批判した教育評論家や県議のフェイスブックは炎上したという。

 校長・教育長への批判というのは、分かりにくい。校長が年休の取得を認めたことや、県としての教員への指導が甘いという批判なら、教諭への批判と似たり寄ったりだし、保護者からの批判に対してすぐに頭を下げ、現場を「注意」したことについての批判なら、理解を示すものと方向性は同じだ。

 私は、記事を一読した時、「保護者からの批判→教育長が現場を指導」という図式に、まずうんざりした。教育行政の保護者やマスコミに対する卑屈さと、現場に対する尊大さは常に裏表だ。教育長は保護者からの批判を受けて、是非を考え、その結果として「注意」をしたのではなく、保護者から批判されたことから、直ちに「注意」となったことが容易に想像できる。本来、上に立つ者は、しかるべき理念を持ち、妥当な批判には謙虚に耳を傾け、不当の批判には理念に基づいた説得をする必要がある。県により、問題によって違いはあるが、基本的に、私は今の教育行政に理念や説得なんて期待できない、と思っている。とりあえず面倒なくことを収めることが非常に大切なのであり、そのためには現場の責任にするのが一番いいのである。

 だから、教諭擁護の意見が多かったことや、批判した著名人(?)のフェイスブックが炎上したことには、若干の安心を覚える。しかし、昨日も少し触れたとおり、教育行政(管理者)だけではなく、現場の教職員も、世間から批判されることに対しては非常に敏感であり、弱気であり、萎縮傾向が強い。今回、「たかが入学式」にいるいないでこれだけ大騒ぎになれば、今後は勤務最優先の考え方がますます強まるだろう。使命感や自分なりの教育信条に基づいてそうなるならよい。問題は、それが周りの顔色を伺うという、教育現場で教えるべき生き方とは真逆の発想に基づくということだ。