「中立」という与党支持



 昨日、一昨日と、教員や自治体の批判されることに対する過剰な恐れについて少し触れた。そこで思い出したのだが、4月24日『朝日新聞』に、「「護憲」後援 自治体尻込み」という記事が出た。確か、その3日前だったかに、よりによって最近政治的姿勢の甚だ怪しいNHKが、実は同じような報道をしていて意外の感を持った。『朝日』の記事より過激だったくらいだ。

 それらによれば、以前はほとんど何でも認められていた「名義後援」が、最近は地方公共団体の「政治的中立」を根拠として、認められないばかりか、公共施設の使用も拒否される事例が増えている、ということだ。後援や施設使用を断られる団体には、「護憲」や「反原発」の看板を掲げるものが多いらしい。

 NHKでは千葉大学名誉教授の新藤宗幸氏、『朝日』では山口大学教授の立山紘毅氏のコメントを取り上げていたが、彼らの発言は至極まとも、いや、あまりにも当たり前のコメント過ぎて、それを「まともだ」などと感動しなければならないことに、哀しさを覚えてしまうくらいだった。もちろん、彼らを「まともだ」と思い感心するのは、現実がその「まとも」からひどくかけ離れているからである。

 彼らの発言とは、自分たちなりの主張を持った団体の活動を抑制する方向に動くのは、決して「中立」などではなく、現政権に対する遠慮(萎縮)でしかない。自治体の使命は、むしろいろいろな意見が出ることを促し、議論が盛んになるようにすることだ、というようなものである。

 名義後援を断る自治体が理由とする「中立」は、学校でもよく見聞きする話である。私には、政治に触れるのが煩わしいか恐いかによって、「中立」を口実として逃げているようにしか見えない。「中立」を掲げて政治的な言動を封じれば、世の中に大きな声で響き渡るのは、「政治的決定」である与党の主張ばかりだ、ということになる。これは、与党も含めた政治家たちの是非を絶えず問い直すという民主主義的機能を著しく衰退させ、暗黙のうちに与党を支持しているのと同じ結果を引き起こす。

 「中立」など本来存在しないのだ。公においては、どんな意見でも自由に表明する機会と場所を保証することだけが、「中立」なのである。名義後援にしても、会場使用にしても、暴力革命を訴えるとか、明らかに公序良俗に反する場合を除いて、最大限認められなければならない。そうして初めて、民主主義の前提である思想信条の自由や表現の自由が実質的に保証されるのである。

 NHKや『朝日』によって取り上げられた事例やデータを見ていると、民主主義も本当に終わりだな、と思う。戦後70年近くかけて、日本では遂に民主主義が根付かなかった、と考えるべきか、70年で民主主義は挫折したと見るべきかは悩ましいが、多分、そのどちらでもあるのだろう。

 昨日も書いたとおり、今時の自治体は、マスコミや市民からの批判に異常に怯えている。だが、名義後援や会場の使用拒否については、マスコミや市民が文句を言っても、卑屈な対応は取らないと思う。なぜか?理由は明白だ。権力による批判の方がより一層恐いからだ。与党だって、自治体が護憲や反原発団体の活動に名前や会場を貸したことを理由として、それらの自治体にあからさまに不利益を与えたりはしない。だが、少しばかり歴史を学べば、権力というものがいかに底抜けに恐ろしく、陰湿で、巧妙に人をいたぶる可能性のあるものであるかということはよく分かる。私たちとの関係で言えば、やはり権力者である自治体は、そのような権力の恐ろしさをよく知っていて、「中立」を口実として、暗黙の与党支持に走るのだ、と私は思う。名前や会場を貸さないように、与党が裏で自治体に飴と鞭とをちらつかせながら圧力をかけていることは、十分にあり得ることであろう。