「宗教」の壁(2)

 日本は民主主義国家である。民主主義が生まれてくる前提には、「自由」と「平等」がある。「自由」と「平等」とを絶対の価値観として実現させるために民主主義は生まれてくるのであり、民主主義を健全に機能させようと思えば、「自由」と「平等」を尊重しなければならない。表裏一体、密接不可分である。
 ところが、日本会議はそもそもそのような前提に立っていない。それを「考え方の違い」と認めていいのかどうか?
 もちろん、民主主義の否定は憲法に反する。だが、憲法が日本人の作るものであり、改憲規定が定められている以上、彼らのような考え方の人間が多数となれば、民主主義を否定するような憲法を制定することは可能のようにも思える。
 だが、実は、日本国憲法前文には「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」という一節がある。「これ」という指示語が指し示しているのは、「国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」という原理である。しかも、「国民の代表者」なるものが、「正当に選挙された国会における代表者」であるということが、前文冒頭に書かれている。つまり、平たく言えば、民主主義に反する憲法を作ることは、憲法そのものによって禁じられているのである。各議院の総議員の3分の2以上の賛成で発議され、国民投票過半数を得たとしても無効となるはずだ。
 とは言え、実際にそのような改憲が実現してしまった時に、現行憲法が自ら無効を主張したり、国民を捕まえるなどということは出来るはずがない。だから、現行憲法で禁止されていても、作ってしまえばそれまで、である。しかも、新憲法に、国民による民主的政治活動の禁止条項などが盛り込まれてしまったら、もはや回復は不可能になる。改憲国民投票が必要である以上、そんな憲法が作られてしまう可能性などあるわけがない、というのは楽観的に過ぎる。国民がそれほど賢いなら、安倍政権がここまで強大化などするわけがない。しかも、新憲法案がそんな露骨な表現で提案されるはずがない。甘言で誘導し、表現をごまかしながら、巧妙に提案されるに違いないのである。更に制定後には、解釈改憲が待っている。
 民主主義は絶対的なシステムではない。理想的なのは、極めて有能で良心的な絶対権力者が独裁することであろう(哲人政治)。しかし、権力はすぐに腐敗するし、エゴイスティックな人々が仕掛ける政権抗争に耐えながら、そのような人が後から後から現れて権力の座につき続けることは難しい。だとすれば、「みんなで決めたことだから少々不都合でもあきらめがつく」ということまで含めて、やむを得ざる最善のシステムが民主主義だということになる。このように考えると、民主主義を手放すことは危険だ。現在、前川某という元官僚が、政府に不都合な発言を繰り返しているが、彼が暗殺されない世の中というのは素晴らしい。これもまた、憲法で民主主義が保障され、民主主義を健全たらしめるために言論の自由があり、一応は全ての国民のために平等に警察権力が機能しているからこその現実である。
 つまり、日本国憲法が民主主義という枠でしかものを考えることを許していないのには、それなりの理由があり、私もそれを支持する。従って、日本会議の意見を単なる「考え方の違い」として尊重することは難しい。
 国民会議が民主主義を否定するのは、あえて言えば、彼らの感情的な信念である。それが宗教的信念であるとすれば、理屈は何も通用しないし、今後も通用する可能性がない。そして、彼らの「布教」によって信者が増えることになれば、これはますます手強い。民主主義陣営は、その思想を宗教として「布教」することが可能だろうか?日本会議に可能なことが、民主主義陣営にとって可能でない、ということがあるとすれば、宗教として成り立つことを許す条件とはいったい何なのだろうか?
 議論が成り立たないということは、考えられないということである。元最高裁判所長官その他の高級な頭脳が、なぜこのようなブラックホールに落ち込むのか。彼らの頭脳がそのように理屈に合わない動き方をするとすれば、他の日本人だって同様である。また、私だって、彼らの側から見れば、「自由」「平等」「民主主義」などという訳の分からないものを信仰している困ったやつだ、ということになるのだろう。人間の運命は、正に神に握られている、と言わなければならない。そんなことを考えながら読んだ。(完)