有益なる「有害図書」(2)

 再び『正体』の第7章から引く。

・人と人とは「対等」ではありますが、「平等」ではなく(以下略)
神道には、「言論の自由」ならぬ「魂の自由」があります。

 これらは意味不明である。「対等」の意味は説明されない。「平等」が民主主義の基本理念であることを意識して、あえて対置しているに違いない。また、「言論の自由ならぬ」という言い方も曖昧だが、あえてこのように言うからには、「言論の自由はないが、魂の自由があるからいい」という意味だろう。「リベラル」かどうかは知らず、民主主義者としては、「魂の自由」がありながら「言論の自由」がない状態は想像できない。やはり民主主義を批判的に意識した表現である。「対等」とか「魂の自由」が意味不明瞭のまま価値を持たされ、それを根拠に民主主義は否定される。この論理性のなさこそが宗教的である。
 そんな立場に立てば、天皇を崇敬することも、日の丸や君が代を大切にすることも、日本人の自由なる魂が自ずから選択する当然の行為であって、それに反する考え方は日本人として「間違い」であるわけだから、圧殺したとしても「自由」を侵害したことにはならず、「正当」なのである。しかも、「平等」や「言論の自由」、すなわち民主主義を主張するのは、「外国人の思い通りの世界を「理想」として思い描き、日本に古来ある思想や文化を貶めることにより、自分たちの思想にまでしている人たち」(第5章)である「リベラル」なのだから、なおさらである。弾圧は正義感に酔うことを可能にするだろう。
 つまり、山村氏が「自由」「多様性を認め」「上から目線や押しつけはありません」と言うのは、彼らの思想の枠の中にいる人にとっての話であって、対立する立場の人に対してはまったく当てはまらないのである。
 山村氏は、第2章において、「リベラル」の言動は「巨大ブーメラン」であると言う。ブーメランとは、「自分が言っていることとやっていることが矛盾しているため、相手への攻撃がやがて自分に跳ね返ってくる、という現象」である。滑稽なのは、山村氏の言説もまたブーメランだということに、本人が気付いていないらしい点である。「リベラル」に向けられているらしい「相手をことさら非難し批判するだけだったり、自分が正しいと主張するだけで、お互いが生かし生かされたりすることを考えない」という山村氏の言葉は、そのまま山村氏の元に返っていくだろう。
 日本古来の思想に含まれる「対等」「魂の自由」と、「外国かぶれ」の民主主義における「自由」「平等」と、どちらが理念として優れているか?申し訳ないが後者である。前者はとにかく意味不明瞭なのだ。
 「平等」の価値を否定する山村氏の論理は、惨めな誤解に支えられている。「個人が自由であれば、自由であるほど、努力やその能力に応じて人間はその力を発揮でき、その結果は、どう考えても平等にならないからです」(第4章)。山村氏はこれを「自由」と「平等」が両立しない根拠としているが、民主主義者(リベラル?)の誰も、結果が同じでなければ「平等」でない、などとは考えていないはずだ。「平等」はあくまでも基本的人権においてであり、競争への参加においてである。
 ならば、山村氏の言う「対等」こそが、私の考える「平等」なのだろうか?それもおそらく違う。山村氏が「マルクス主義は(略)結果まで平等にしようとして、最終的には失敗しました」と続けることからすれば、「平等」を軸に共産主義を持ち出し、共産主義とリベラルとを関係づけることで、「リベラル」への反感を煽るという手に見える。
 いずれにせよ、山村氏には理屈を超えた信念があり、立場が変わった時に相手にどう見えるかという視点が欠落している。だから、自分が批判したばかりの「リベラル」と同じようなことを主張して、何ら恥じる所がないのである。
 日本会議機関誌『日本の息吹』6月号巻末の「息吹のひろば」という投書コーナーを見ると、福岡県のSさんという方による「山村氏に「我が意を得たり」」という投書が載っている。内容はタイトルの通りだ。その直後に『正体』の広告があって、「話題沸騰!」と添えてある。単なる宣伝用の美辞麗句と考えてはいけない。我が家に届いた『正体』は第2刷なのであるが、今年3月1日に初版が出てから第2刷が出るまでに22日しかかかっていない。既に3ヶ月近く経つ現在、版は更にいくつ重ねられているだろうか?著書を2冊世に出しながら、第2刷に進んだことのない私としては、本当に羨ましい限りだ。
 おそらく、Sさんと同じ喜びを以てこの本を読んだ人は多いのだろう。その人たちが「我が意を得たり」と言って、これほど稚拙な論理に辟易することなく、むしろ喜んで読むということは、読書とはどのような行為か、ということについての重要な示唆を含むように思うが、それはさておき、論理とは全然関係のないことで方向性が決められ、強固な信念として人を支え、人を動かすとすれば、それは恐ろしいことである。やはり、この世は神の意志による予定調和なのだろうか?(そのうち続く、かも)