有益なる「有害図書」(1)

 先週の半ばのこと。帰宅すると、私あてにレターパックが届いていた。愛知に住む友人Dからだが、「品名」欄に「参考書」と書いてある。参考書?・・・私はいぶかしく思いながら封を切った。
 中から出てきたのは、なんと日本会議の機関誌『日本の息吹』6月号と、やはり日本会議と関係するらしい山村明義『日本をダメにするリベラルの正体』(ビジネス社、2017年3月。以下『正体』と略)という本である。一筆箋が入っていて、「敵を知る 有害図書です」と書いてある(プッ=笑)。
 ここで初めて思い至った。人間関係に甚だ節操のない私には、「日本会議正会員・靖国神社崇敬奉賛会終身正会員」なる肩書きの名刺を持つ愛すべき友人がいるのである。彼は、私の日本会議に関する記事(→こちら)を読み、私の未熟と無理解とを情けなく思って、平居に少し勉強させてやるか、とわざわざ本を送ってくれたらしい。友人というのはありがたいものである。
 期待に応え、電車の中で一度目を通した上で、日曜日にノートを取りながら熟読した。なるほどこれは「有害図書」だ(笑)。ごく一部の箇所を除き、ほとんど隅から隅までデタラメ・稚拙な論理(こじつけ、極論)と事実誤認とに満ちている。それらをいちいち細かに指摘するわけには行かない。仕方がないので、少し絞って問題を指摘しておこう。
 『正体』は、日本会議の立場で書いている、とは書かれていない。著者の山村という人も、日本会議の会員であるかどうか明らかにしていない。しかし、先日取り上げた青木理の指摘していた日本会議の基本思想と『正体』の立場が非常によく重なり合うことや、「2015年頃から、日本会議以外の保守はおかしくなっている」「日本会議は一生懸命日本のために努力をしている人たちです」といった記述を見ると、山村氏が会員かどうかはともかく、日本会議に深く共感し、同一歩調を取っている人であることは間違いがない。
 山村氏の問題点が特によく露呈しているのは、第7章「本当のリベラリズム神道にある」であろう。他の章が自分と立場を異にする人々に対する批判になっているのに対して、この章だけは積極的に「こうあるべきだ」という主張をしているからである。山村氏にとって「リベラル」とは、外国かぶれをして、日本の伝統文化をおとしめる人たちである。その山村氏が対極に見出し、広めようとするのが、神道という日本の伝統文化なのだ。少し抜き書きする。

・相手をことさら非難し批判するだけだったり、自分が正しいと主張するだけで、お互いが生かし生かされたりすることを考えなければ、「むすび(引用者注:万物と人と神とが関係を持つこと)」は起こりえず、人は幸せになれないと、神道では教えているのです。
・(神道に)「上から目線」や「押しつけ」はありません。
神道は人や社会の「多様性」を認め、それぞれが「平等」であるという思想であり、日本人もまた同じです。
・(分霊は)神々の世界は極めて「自由」であると同様、日本人の精神は基本的に「自由」だという考え方だと言えるでしょう。

 へぇ、これは恐れ入った。これを読みながら、真っ先に私の頭の中に浮かんできたのは、学校における日の丸・君が代問題である。
 前世紀末、学校で入学式・卒業式に日の丸を掲揚するかどうか、君が代を唱うかどうかで最後の攻防が繰り広げられていた。幸か不幸か、私はその場面に居合わせた最後の世代ということになり、一部始終はとくと見させてもらった(→参考記事)。学校現場で旗・歌を強制することは、一見、神道とも日本会議とも関係のない、教育行政と現場教職員との権力闘争と見えたが、日の丸・君が代という法的根拠のないものを、なぜ学校で強制できるのかという現場からの反撃に対して、政府はついに国旗・国歌法の制定で応える。ここに神社界や日本会議のような右翼的団体が深く関わっていたことは間違いがない。国会議員をどれだけ後押ししたかは分からないが、少なくとも、日の丸・君が代を正式に国旗・国歌とし、全ての日本人がそれを敬仰し唱和するよう働きかけることは、彼らが元々強く求めていたことであった。それが、日の丸君が代闘争の最後の場面で表面化したのである。青木理日本会議の正体』でも、日本会議が国旗・国歌法の早期制定を求める要望書を首相(小渕恵三)に直接手渡し、法案が可決した時には、モニターで採決の様子を見つめていた約200名が立ち上がって万歳三唱をしたことが記述されている。
 この時を境に、学校にはあきらめムードが漂い、それ以外のことについても教員は口を開かなくなった。式で日の丸を掲揚せず、君が代を唱わない学校はほとんどなくなったが、教育行政はそれでも飽き足らず、教員がきちんと君が代を唱っているかどうかを口の動きでチェックしたり、それに基づいて処分さえ出すという状況が続いた(→参考記事)。昨今、いじめやそれによる自殺、低学力など、学校における問題は決して少なくなっていないが、あの時、日の丸・君が代が実施されることを「学校の正常化」だと言っていた人々は、「正常化」された学校で、なぜこのように問題が生まれ、続くのか、説明もしてくれないし責任も取ってくれない。
 およそ、人に自分の考え方や感じ方を押しつけるということにおいて、日の丸・君が代ほど深刻で嫌らしい問題はなく、神社界や日本会議が押しつける側に立っていたことは明らかである。それでいて、「自由」「多様性を認め」「上から目線や押しつけはありません」などなどと言い切れる感覚が私には理解できない。
 いや、理解できる。そのヒントも、山村氏の記述に見出すことが出来る。(続く)