ベアトリーチェ・ラナなど

 昨年、中林淳真という老ギタリストについて一文を書いた(→こちら)。高齢による衰えのため、ギタリストとしてはもはや体を為していないが、彼の書いた本(『心の旅 セレナーデはギターで』)はとても面白かった、というような話だ。その後、手に入れた『ジプシー 愛と死の光芒』(山陽新聞社、1994年)は更に圧巻!!どこまでが実話かは知らないが、仮にそこに書かれたことが実話だとすれば、「事実は小説よりも奇なり」という言葉さえも色あせてしまうほど、正に奇想天外、壮絶な体験をしてきた人なのだなと打ちのめされた。そして、3度目の対面が実現することを祈る気持ちは、前にも増して大きくなった。
 「中林さんがまた来るよ」と声をかけられたのは、先月半ばのことだった。来石は6月22日だという。やはり2度あることは3度ある。私は驚喜した。今度はもうギターなんてどうでもいいから、彼の体験の数々を聞いてみたいという思いで、とても楽しみにしていた。
 ところが、数日前、それが中止になったという連絡が入った。なんとも残念だった。一方で、仕方ないな、というあきらめもあった。なにしろ90歳なのだ。岡山から来るのはなかなか大変だろう。近々、関係者に事情(近況)は教えてもらうつもりだが、果たして、3回目はあり得るのだろうか?ま、自分が岡山に会いに行けばいいだけのことなのだけれど・・・。半年以上前に注文したCDも送ってこない。
 話は変わる。
 2週間続けて、日曜日の夜に、ファビオ・ルイージ指揮NHK交響楽団定期演奏会の録画をテレビで見た。ファビオ・ルイージという人は、陽気でのんきなイタリア人というイメージからはほど遠い、知的で勤勉、実直そのものといった感じの、いい意味で、まるで銀行員といった雰囲気の持ち主だ。昨日の続きではないが、なかなか魅力的な風貌だ。マーラーの「巨人」ほか、いろいろと楽しませてもらった。素晴らしいとは思うが、これがルイージの音楽だというような個性を感じるには至らなかった。
 さて、一昨日の一曲目は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番。私が大好きなベートーヴェンハ長調(→こちら)である。独奏はベアトリーチェ・ラナ。先日、梅津時比古の音楽評論を話題にした時に触れた(→こちら)、あのラナである。まだ24歳。復習として、その時の梅津の言葉を確認しておこう。
 私が引いたのは、「そのまま奏者がいつまでも弾き続けて鍵盤の前で狂っていてもおかしくない、とふと思う。その演奏は明らかに宇宙に通じており、しかしそこに痛みが差している。」という一節だ。これはラナのリサイタル、「ゴールドベルク変奏曲」の演奏についての評である。演奏会は生き物で、一度限りのものだ。まして、オーケストラコンサートの協奏曲、巨大なNHKホールなどなど、条件がまったく違う演奏会に通用するわけがない。
 が、それにしても、梅津評は的外れに思われた。もともと梅津評は意味不明なのであるが、それにしても、である。
 ノン・レガートで、細かい明晰な音の粒がころころころころ走り回っている感じに弾く。非常に特徴的だ。それは一見、グールドのようだが、それほど鋭角的ではなく、しかも至って冷静である。おそらく、好き嫌いは分かれるんだろうな、と思ったが、私は少なくとも嫌いでない。特に、若き日のベートーヴェンについては、重厚にがんがん弾くより合っているとも思った。聞けば、彼女はこの曲を12歳の時から演奏しているという。天才恐るべし。すっかり自分のものにしている感じで、安心して聴いていられた。
 このころころした明晰さはバッハにも合っていそうだ、と思っていたら、期待通り、アンコールにはバッハ。パルティータ第1番のジーグであった。これを聴くと、グールドとは似ても似つかぬピアニストであることがよく分かる。誤解を恐れず、単純に言ってしまえば、それは男性と女性との違い、50歳と20歳の違いのようでもある。柔らかで軽やかで細やか。手に汗握る興奮はないが、気持ちよく聴かせてもらった。