議論してよい問題と悪い問題



 9月29日、シンガポールから自宅に戻って、3日分の新聞に目を通していたところ、9月28日付け毎日新聞の「くらしナビ・学ぶ」欄にあった「主権者教育 提言の趣旨は」という大きな記事がひどく気になった。そこでは、自民党民主党の2人の人物が、毎日新聞の記者のインタビューに答える形で、選挙年齢が18歳に引き下げられることに伴う高校での主権者教育や、それに対する政治的対応についての見解を述べている。党としてと個人としての両方がやや入り交じった感じの見解だ。

 さて、自民党代表(?)は冨岡勉・文部科学部会長である。その中に、次のような問答がある(Qは記者、Aは冨岡氏)。

「Q:教員が萎縮せずに主権者教育を進めるため、副教材の配付以外の手立ても検討すべきではないですか?

A:生徒が興味を持って討論できそうなテーマをマスコミも含めて考えてくれれば参考になります。例えば、身近なものでは同性婚を認めるかなどがある。安保論争などは国が決めることで、大きな流れは決まっているから、あまりそぐわないかもしれませんね。」

 この部分について、その後反響があったという話は聞かない。これがなぜ大問題にならないのだろう?これによれば、政治的問題には、高校生が議論してよい性質のものと、悪い性質のものがある。前者の代表は同性婚、後者の代表は安保法制だ。しかも、安保は「国が決めることで、大きな流れは決まっている」とある。つまり、高校生というよりも、国民が口を出す性質のものではないし、「大きな流れ」すなわち決定の方向性は、国民の意見には関係なく予め決まっている、と堂々と言う。

 私が宮水に来る前にいた学校と、その前にいた学校は、旧制中学校上がりの伝統校で、どちらも男子校であった。私が在任中もしくはその直前に、共学化の方針が県から提示され、同窓会や生徒からごうごうたる異論が巻き起こった。その動きが最後まで続いていたのは前任校で、学内集会のみならず、仙台市内の繁華街でのデモ行進、教育委員会への意見書提出などの動きがあった。

 私はそれを見ながら、これは共学化問題だから許されるんだよな、入学式や卒業式に日の丸君が代を持ち込むな、という話であれば、間違いなく潰されるだろう、場合によっては、教員の監督責任が問われたり、煽動の嫌疑が掛けられて処分ということもあり得るな、と思っていた。県からどのような指示があったわけでもない。私が直感でそう思ったに過ぎないが、それは絶対に間違いのないことと確信できる。そう、世の中には、議論が許されることと許されないことがあるらしいのである。今回の毎日新聞の記事などは、それが私の直感ではなく、事実であることを露骨に示してくれている。

 もちろん、そんなことが許されていい訳がない。あらゆる問題は、全ての国民の意見に基づいて決定されるべきであり、そのためには自由な情報交換と議論(言論・表現の自由)とが、何の曖昧さもなく許されていなければならない。そのことを否定するが如き発言は民主主義の否定に等しく、言語道断である。また、それらを抜きにして予め決まっている、などというのもあってはならない話だ。

 なぜ、問題には議論が許されるものと許されないものの2種類があるのだろうか?後者は、なぜそのようなことになるのだろうか?容易に考えつくのは、それが政府・与党にとって重要な、つまりは譲れない問題だということだ。安保法制や日の丸君が代がその典型であるが、後者のようにイデオロギー性を帯びている場合も多い。また、政府・与党側に後ろめたいものがある場合も、議論は許されないのではないかと思う。こちらの例ははっきりしないが、選挙制度に関する議論などは当てはまるかも知れない。

 9月26日の「天声人語」に、以下のような話がある。

「戦前の日本は、どのようにして先の戦争に突入していったのか。政治学者の丸山真男は、敗戦直後に執筆した論文で喝破している。「何となく何物かに押されつつ、ずるずると」。これは驚くべき事態だ、と。」

 これを読み流すことも、笑うこともできない。70年後を生きる日本人も、確かに、何となく空気を読みながら生きている。だが、それがいかに危険なことであるかというのは太平洋戦争の教訓である。まして、冨岡氏の発言は、それが政府・与党にとって好都合であることを教えてくれている。そのような「空気」、そして「空気」を読みながら無難に生きようとする自分とは真剣に闘わなければ。