日本人戦犯の「無念」に・・・



 27日の午前は、シンガポールマレー半島の接点を見てみたかったのと、マレーシアに一度入国してみたかったのとで、ジョホール・バルに行った。シンガポールからマレーシアに行くとは言っても、バスで30分である。一応、ちゃんとした陸路の国境で、巨大なイミグレーションの建物があり、出入国の審査は真面目にやっている。ジョホール・バルは見所がなく、アジア的な喧噪に浸ることもできない面白味のない街であった。

 28日の午前は、大先生から教えてもらった様々なことを確かめながら、「牛車水(ニウチョーシュイ)」(=チャイナタウン。チャイナタウンのことを、普通は「唐人街」というが、シンガポールでは、水が不自由だったチャイナタウンに牛車で水を運んでいたという歴史に基づいて、このように言う。)の歴史散歩をした。ご本人が自分で案内するとおっしゃってくれたのだが、今回は辞退申し上げ、一人で歩いた。牛車水は、どんなに丁寧にくまなく歩いても、歩くだけなら2時間もあれば十分なエリアである。

 その後の半日あまり、私は空港方面に足を伸ばすことにした。目指したのは、チャンギー博物館である。これは、かつての捕虜収容所跡に建てられたもので、中には教会(チャペル)も併設されている。

 第2次世界大戦中に、日本軍が連合国軍の捕虜を収容して虐待し、多くの死者を出した場所として有名だが、読書の結果として、私にとって印象強烈だったのは、日本軍が連合国軍の兵士を収容して虐待したと言われるその場所に、終戦後は日本兵が収容され処分されたという事実であった。同じ場所で立場が逆転し、同じようなことが行われるということの中に、戦争で勝負が付くということの厳しさを感じる。『学徒兵の青春』(奥村芳太郎編著、角川書店、1993年)には、池浦匡男という人の次のような回想が収められている。

チャンギー刑務所の生活は、毎日が恐怖の連続であった。私が入所した21年5月の時点になって内地から弁護団数名が到着したが、それまでは連日にわたって絞首刑が執行されていた。病人も発狂者も除外されない峻烈なもので、その裁判は報復のため以外のなにものでもなかった。(中略)当時の刑罰の目安は、捕虜に対してビンタひとつで3年、鞭で5年、軍刀の鞘で殴れば10年という相場であった。所内で死刑執行を待つ人たちや発狂者に会うのは、同じ日本軍人の一人として、戦争の犠牲になって相済まないという気持ちから、金網越しであったが目を伏せた。公正な裁判を受けられないまま、死刑されていく彼らは、戦争の最大の犠牲者ではなかろうか。(中略)死んでいく人は無念の涙を流したと思う。南十字星は明け方まで輝き、私は死の恐怖に怯えながら母親に祈念していた。」

 また、『写真図説 日本の侵略』(アジア民衆法廷準備会編、大月書店、1992年)には、「B・C級戦犯の責任も追及され、チャンギ刑務所で処刑された日本人は134人に達した。(中略)戦犯として有罪にされた者のなかには、あきらかに人まちがいによるものも含まれている」とある。

 さて、世界有数の空港と言われるチャンギー空港のすぐ北側には、今でもチャンギー刑務所がある。シンガポール政府による、現役の巨大な刑務所だ。高い塀が取り囲んでいて、一目でそれと分かる。どう見ても治安がよく、政治犯も存在しないであろうこの国に、どうしてこれほど巨大な刑務所が必要なのかと思ってしまうが、そこに何人の囚人が収容されているのかは定かでない。

 都心から1時間。バスを降りると、その刑務所の壁際に、小さな白い建物が建っていて、それが「チャンギー博物館」だった。それなりに有名な割には小さい。隣接する刑務所が巨大であるだけに、その小ささは際立つ。入場は無料。中には、日本がシンガポールを占領してから降伏するまでのいきさつと、その間にこの地(捕虜収容所)で何が行われていたか、ということについてのパネルと多少の遺物が展示されている。私が訪ねた時、入場者は全てが欧米人(多分、連合国側の人々)だった。わざわざ受付で音声ガイドを借り、説明を熱心に聞きながら時間をかけて回っている人が多かった。展示は他愛もないもので、ざっと目を通すだけなら、20分もあれば十分であろう。

 私が少しショックだったのは、日本が降伏したところで時間が止まっていることである。つまり、戦後、一転してこの場所が日本人の戦犯収容所として機能し、更に多くの悲劇を生んだことには一言も触れられていないのだ。

 私は、むやみに戦時中の日本軍の蛮行を強調しようとは思わないが、これからをよりよく生きるために、それを直視することは必要だろうと思っている(→参考)。ただ、日本人だけを悪く言って済むものでもないと思う。もともとは欧米人によるアジア植民地化の動きがあり、それに対する防衛・反発として、もしくはその流れに乗ろうとして日本が軍備の増強に努めた。人間の欲望が、様々な力学の中で変化し、最後は日本が破綻して負けた。人類全体の欲望やストレスの結果としての戦争であり、終戦であった。日本人が「反省」することは必要だが、「反省」が必要なのは全人類である。およそそんな風に思う私にとって、終戦=捕虜の解放=解決・終了という展示は、あまり感心できるものではなかったが、日本の統治に苦しんだシンガポール人の意識を表すと考えれば、彼らの後遺症の深刻さを物語っているようにも思う。

 私が日本人だからというのではなく、自分の意志に関係なく戦争に巻き込まれて南方に送られ、何かをし、報復の対象となって、異国で処刑された人々の無念は想像に余りある。まして、数十年後に自分たちのことが抹消されてしまったことを知れば、その無念は更に大きなものになるだろう。そんなことに思いを致す数少ない人間の一人として、書き留めておこうと思った。