薄暗く濁った「仲秋の月」



 最初に書いたが、私が今回訪ねたのは、まぁ在野の「郷土史家」といった感じの人である。シンガポールにある某中国人学校の歴史を調べていてこの方の存在を知り、彼の著書を出しているシンガポールの出版社経由で連絡を取ってから、メールで多少のやり取りをするようになった。知識だけの問題ではなく、メールの文面にでも誠実で温かい人柄が表れていたので魅力を感じ、一度お会いしてみたいと思っていたところ、8月に新しい著書を送って下さったので、この機に・・・と思い立った。大先生も歓迎して下さるようだった。

 在野の郷土史家とは言っても、かつてはシンガポール小児科学会会長や国立シンガポール大学医学院副院長を務めていたという偉〜い方である。郷土史は退職後の趣味。その点では、道楽中国学者(?)の私と似合いの相手だ。

 指定された9月27日16時に、都心から少し離れた高級住宅街にある自宅にお邪魔した。予想通りの豪邸である。私の気配を感じて、呼び鈴を押す前に自ら出て来て門を開けて下さった。何しろ初対面なので、自己紹介的な雑談をしてから本題に、と思っていたら、玄関を入ったところの20坪くらいは十分にありそうな、バー付きの広くて美しいリビングルームのテーブルの上に、私のために用意したと思しき本やノート、コピーが積み上げてあり、それらについての説明や私への質問を始める。お土産を差し出す暇さえ無い。御年78歳らしいが、ものすごいバイタリティーだ。私がいろいろな資料に目を通しながら、気になったところに付箋を貼り付けていくと、すぐに2階へ持って行ってコピーを取って来てくれる。遠慮する必要のない雰囲気が漂っているから不思議である。それが人柄というものなのだろう。

 夜、自ら高級BMWを運転して、奥様と食事に連れて行ってくれた。郊外にある有名な北京ダックの専門店で、青島ビールを飲みながら、北京ダックのフルコースをご馳走になった。椰子の実に入った海鮮スープは初めて食べた。折しも中秋節。食後のデザート(お菓子)を載せた大皿には、「中秋快楽」という文字が黒酢(←チョコレートかと思った。びっくり!)で書いてあった。女子大で中国文学を講じていたという奥様も気さくで、自由とは言えない言葉で2時間半の夕食をともにすることが苦にならなかったのは、やはり人柄と言うべきだろう。

 ところで、自宅を出る時、使い捨てのマスクをくれた。面倒なので、私が固辞すると、「シンガポールはPM2.5がたいてい基準値の2倍以上だから、した方がいいよ」とおっしゃる。思えば、わずか2日ではあるが、滞在中の天気は、曇りなのか晴れなのかよく分からなかった。日中もダイダイ色の太陽が真上に見えている。これが大気汚染の結果だとは驚きだ。インドや中国製の旧型車が街を走っているということもなく、走っているのは欧米や日本製の新しい車ばかり。交通量が東京以上だとも思えない。高層のマンションが多く、昔の中国のように、人々が練炭で煮炊きをしているということもない。なのに、どうして東京都心からは富士山が見えるのに、シンガポールでは太陽さえダイダイ色なのか?不思議だった。

 食事をしながら、目の前に出てくる様々な料理の食材がどこで作られているか、という話になった。奥様によれば、シンガポールに農漁業はなく、全てがマレーシアやタイなど、海外からの輸入だという。確かに、農地を目にしたことはないが、回りを海に囲まれているわけだし、漁業も含めてゼロというのはあんまりだと、帰宅してから調べてみると、農水省のHPに資料があった。ゼロではない。「食料自給率は公表されていないが1割未満である」とある。農水産業の生産額はGDP比0.03%で、これは食糧自給率38%である日本の40分の1だ。

 繁栄を誇ってはいるが、危うい国だな、と思う。なんだかんだ言っても、やはり「農は国の本」なのだ。食糧を自給できずに外国に頼り、外国が見棄てた瞬間に生きていくことさえできないというのは、間違いなく自然に反する。シンガポールの繁栄というのは、そのような薄氷の上に載ったものらしい。

 都心には高層のオフィスビルが林立し、その外縁部には30階〜50階といった高層マンションが建ち並ぶ。全ては、電気が止まった瞬間にほとんど何も出来なくなる楼閣だ。もちろん、これはシンガポールに限ったことではなく、今や世界中の全ての大都市について言えることなのだけれど、文明というのは脆弱だな、と思う。シンガポールは人を自由にする「都市」の中の「都市」で、本当に魅力的な場所なのだけれど、それを無邪気に喜んでいてはいけない。

 さて、夜の10時。食事を終えて店を出ると、中秋節の満月が見えていた。しかしそれは、残念ながら、汚れたシンガポールの空をフィルターとした、薄暗く濁った色の月だった。それはもはや「仲秋の名月」とは言えない。