おひさま村教育研究所



 新聞各紙で圧倒的なスペースが集団的自衛権問題に費やされていた先週の金曜日、『河北新報』の「持論時論」という投稿コーナーに、「おひさま村教育研究所代表 千葉義明(57歳・多賀城市)」なる人物の「教員の入学式欠席 論ずべきは公教育の質」という文章が載っていた。

 私には多賀城市在住の千葉義明という知人がいる。年齢もだいたい57歳くらいだ(正確な年齢は不知)。「知人」という表現は失礼である。前任校・仙台一高の同僚、私が59回生という学年を担任していた時の学年主任、その後、私が所属していた生徒指導部の部長であった。私が前任校で出会った「尊敬できる人物ベスト3」の一人で、どうにも頭の上がらない人である。度量の大きさ(←私に最も欠けているものだ)と、「強い人間ほど他者に優しい」を体で表している(←いじめや体罰が問題になっている折、この上なく必要とされる人間的要素だ)ことにおいて、この人の右に出る人はなかなかいない、と思っている。その後、私が一高を離れた後で、石巻高校に異動となったが、たった1年で、定年まで数年を残して突如退職し、私を残念がらせた。「知人」と言うよりは、「偉大なる先輩」が正しいだろう。

 だが、果たして私の知る「千葉義明先生」と、「おひさま村教育研究所代表 千葉義明」は同じ人物なのであろうか?同姓同名があっても不思議ではない名前である。「おひさま村教育研究所」なんて聞いたことがないし、先生がそんな団体を立ち上げるというのも不似合いな感じがする。

 文明の利器・インターネットで検索すると、くだんの研究所はすぐに見つかった。代表者の千葉義明氏は、確かに私の知る千葉義明先生であった。もちろん「教育研究所」は名ばかりの個人経営で、現在、先生が栗原市で改装中の古民家をやがて開放して、子育て支援というか、多くの人々の癒やしと交流の場になればいいな、ということらしい。

 さて、『河北』の記事である。先生の主張は、一見、学校現場の問題を全て管理職や県の責任にするかのようである。しかし、「(教員の仕事の)全てを監視することは不可能であり、個人の善意、力量、意欲に頼る部分が多分にあります。教員一人一人が持てる力を最大限に発揮することによって教育の質が保たれるのです。」「(尾木直樹の)「公教育への期待値は底を突いた」式の批判は、教員の意欲を低下させるだけです。教師の意欲やパフォーマンスの低下の最大の被害者は生徒なのです」という基本的考え方は正しく、この主張に沿って管理職批判、県教委批判は読まなければならないだろう。

 つまり、「この問題の本質は、勤務先の入学式を欠席した教諭個人ではなく、入学式を欠席する教諭を新入生の担任に据えなければならない校内人事や県立高校の人員配置にあります」と書けば、いかにも管理職や県の管理体制を強化せよと言っているようだ。これがこの文章の分かりにくく、もったいない所なのだが、先生の意図は逆で、あくまでも最後の一文、すなわち「教員が力を出し切れる環境づくりとバックアップが何より重要であると思うのです」こそが大切だ。校内人事や人員配置も、教員が意欲的に働けるものにするという目的で行われなければならない、と言っているのである。教員(のみならず「人」)が内発的に動くことをどう実現させるか、というのは、私自身にとっても重要なテーマだ(→参考=2010年12月24日記事)。

 ま、今回の入学式問題のみならず、教育現場では日々いろいろな問題が起こり、それが多くの人によって論評されているわけだが、最も深刻な問題の一つに、千葉先生のような人が、健康や家庭に特別な事情があったわけでもないのに、管理職にならず、定年前に退職してしまったという問題がある。「人格者に限って管理職にならない」というのは、昔からよく言われることだが、「早期退職」もそんな寂しい一般化がある程度可能に思われてならない。


(補)「おひさま村教育研究所」のホームページ(→こちら)に「代表の独り言」というコーナーがあって、先生が学校や教育に関する短いエッセイを書いておられる。『河北』の投稿記事より、こちらの方が明快で面白い。私は現職の教員であることによって、言論には有形無形を問わず多くの制約がある。退職したからといって、学校内での出来事について暴露的に語ることが全て許されるわけではないが、私よりはよほど許容範囲が広い。そんな立場を利用して、先生が学校の問題を簡潔かつストレートに指摘していているのは、読んでいて気持ちがよい。そこでの健筆を楽しみにしていたい。