「説明責任」という言葉の意味



 しばらく前の話になるが、県内のある高校の教員と四方山話をしていて、相手方の学校の職員会議の話になった。非常に強く印象に残った話だったのだが、ま、面倒を起こすことになったら嫌だなという自制心が働いて、一文を書くことはなかった。ところが、衆議院議員選挙の教育に関する各党の公約を読んでいて、余り関係はないのに、その話をふと思い出した。自分が修学旅行を目前にしていることも、多少は関係するかも知れない。もう当たり障りがないだけの時間も経っただろうから、書いておこう。

 なんでも、修学旅行直前に2名の生徒の喫煙が発覚した。通常だと「謹慎」という名の特別指導に入る。ところが、数日後に修学旅行が控えていて、通常の特別指導だと、謹慎状態のまま修学旅行を迎える。さて、この二人を旅行に連れて行くべきかどうかで大いに紛糾した。二人は前歴がいろいろとあり、タバコも常習らしい。他校の話であって、もちろん私が出ていた会議ではなく、間接的に聞いた話なので、詳細が分かるわけではないのだが、どうも「紛糾」という言葉には語弊があるようだ。教員の意見は「連れて行かない」で一致していたのに、何とかして「連れて行く」という結論を出させたい管理職が、ズルズルと議論を引っ張ったようだ。なんだか、一昔前の「日の丸・君が代」職員会議を思い出す。

 「連れて行かない」という教員の意見は、今、2人の生徒にとって必要なのは、襟を正し、今の自分と今後の高校生活をじっくりと見つめることであるが、たとえ現地で何らかの特別扱いをするにしても、修学旅行の雰囲気の中では、その実現が難しい、それは決して本人のためにも、回りの生徒のためにもならない、というものであった。私には、ごく当たり前の、常識的判断に思える。

 一方、「連れて行く」としたい管理職の言い分は、「直前に問題を起こした時には、修学旅行に連れて行かない」ということを、事前にどれだけ生徒・保護者に徹底させたかに不安がある、しかも、直前であるだけにキャンセル料金が発生し、保護者に金銭的負担を強いることになる、よって「連れて行かない」に値するだけの説明責任を果たすことが難しい、ということだった。「説明責任」という言葉がやたら繰り返された、と私の友人はあきれていた。公務のあらゆる場面における最近の傾向である。もちろん、今の職員会議であるから、さんざん「紛糾」した末に、管理職が結論を述べて終了となる。ただし、「紛糾」に価値がなかったかと言えば、そうでもなく、校長は、連れて行かない方向で保護者に話をし、保護者が拒否した場合には連れて行く、という、やや玉虫色の結論を出したそうである。その後どうなったのかは知らん。

 う〜ん、「今の学校」を象徴するような議論だ。私が、この議論に限りない寂しさを感じるのは、教員側が、いわば「教育的配慮」に基づき、どうすることが生徒の成長のために有効なのかと考えている一方で、管理職の言葉には「教育的配慮」が微塵もなく、形式的な手続き論に終始しているからだ。しかも、生徒が問題を起こし、迷惑をかけているにもかかわらず、それを横に置いておいて、学校がそれ以前に完璧に遺漏がないと確信できなければ頭を下げるというアンバランスな卑屈さも、県や国レベルも含めてよくある話だ。

 説明責任とは、自らの教育者としての信念を、責任を持って説明する、という意味でなければならない。そうでなければ、上の話に代表されるように、説明は「教育的配慮」ではなく、「形式」に終始する。その校長が為すべきは、どういう理由で、どうすることがA君、B君のためになるのかの説明であり、それを両親が受け入れなければ、納得するまで説明するのが、説明責任を果たすことであるべきなのである。

 もちろん、これは最終責任を負うことのない平教員だから言えることであって、管理職ともなれば、判例その他の要素を考慮しながら、現実的判断をする必要があるのかも知れない。しかし、その現実判断は、残念ながら、社会常識に基づく結果とはならずに、迎合となる場合が多い。もめ事を避けるために、「公」はひたすら低姿勢をとる。それが、教育本来のあり方とどう関係するかなどどうでもいい。その一方で、「服務規律の徹底」とか「授業の質の向上」とかを現場職員に偉そうに言う「お上」に対して、現場の教員はしらけ、いよいよ面従腹背の態勢に入る。