フィンランドの教育を考える(6)



 フィンランドの教員養成システムについて書くと言いながら、寄り道をしつつ、数日が過ぎてしまった。

 さて、フィンランドの教育水準が高いという場合、その原因を尋ねると、多くの専門家が、その一つに「教師の質の高さ」を挙げる。では、なぜそのようなことが実現しているのかというと、教師が全員「修士号」を取得しているということが指摘されることが多い。しかし、私は、それが直ちにフィンランドの教師の質の高さを示すことにはならないと思っている。なぜなら、価値があるのは「修士号」そのものではなく、どのような勉強をすればそれが取得できるかだからである。たとえば、大学が客観的な知識注入形の授業を行い、それを積み重ねた結果の「修士号」であれば、それは取るに足りない「飾り」でしかない。もちろん、大学となれば、日本ですらそのような愚かな教育方法は採らず(最近、非常に怪しいような気もするが・・・)、主体的な研究をさせようとするくらいだから、フィンランドで行われているわけがない。

 この点について、フィンランドの大学における教員養成システムの特長を表すのは、「教育実習」であろう。

 日本の教育実習が、大抵は大学4年の2〜3週間であるのに対し、フィンランドでは、大学の5年間に、同じ学校で3〜4回、のべ20週間ほどの教育実習をするという。しかも、日本が、とにかく規定通りの週、授業回数をこなせばいい、実習は教員免許を取るための「手続き」であると、極めて形式的な考え方に陥りがちであるのに対し、フィンランドには、学生が現場の教師と授業のあり方についてともに考え(教師が学生とともに考え、と言うことも可能)、課題を大学に持ち帰って研究するという。教育実習が、大学の学問の中に適切に位置づけられ、生きたものになっているのである。

 既に書いた通り、フィンランドでは、知識が客観的固定的なものと考えられておらず、自ら考え、学び、それを生涯にわたって続けられるようにするという教育目標が設定されている。そのように子供を支援し(あえて「教え」とは言わない)、導くためには、教師自身もそのようでなければならない。生きた「教育実習」を一つの柱とするフィンランドの大学は、教師のそのような「探究の姿勢」を養成していると言ってよい。大学は、教師の卵を大学卒業後も育ち続けるように育てているのである。

 ところで、教師が大学でそのような探究型の姿勢を身に付けたとしても、就職後の学校にその姿勢を有効に機能させるシステムがなければ、あまり意味はないだろう。しかし、そのシステムがフィンランドには見事なほどにあるのである。だから、私は「修士号」を持っているということに象徴される大学教育よりも、そこで身に付けた姿勢を生かし、教員が生涯にわたって自分を伸ばしていける学校現場のシステムの方が、フィンランドの高い教師の質を支えているように思う。

 そのシステムとは、教師が、医者や弁護士と同じような専門職と見なされ、教科書の採択権を始めとする大きな権限を与えられ、授業以外に仕事がなく、人事考課制度も教員免許の更新制といった管理・監督もないという環境だ。そのような環境の中でこそ、教師は誇りと使命感によって、自らの仕事の質を高めて行かざるを得ないだろう。

 「本来の教育を受けさせるため、多くの権限をそれぞれの職場、つまり生徒、教師そして校長に任せたのです。国が決して阻害してはならないのです(中略)。最も重要なのはモチベーションだからです。教師の意欲、生徒の学習意欲、それこそが核心なのです。厳しく管理すれば、モチベーションが失われ、結局何もかもがだめになってしまうのです。」という教育相の言葉は、そのことをよく言い表しているように思う。

 今書いてきたような教員養成についての考え方とやり方は、フィンランドにしても、日本にしても、教員が生徒をどう育てるかということに完全に投影されている。すべてはリンクするのである。だから、現在の日本のように、教員の管理を厳しくすれば、自ずから生徒に対しても管理的な教育が行われることになる。

 ところで、そのように教師を扱った時、教師は「楽だからいい」として、仕事の手を抜きはしないのだろうか?誇りと使命感に基づいて職務に当たるとは、きれい事に過ぎないのではないだろうか?(これを生徒に投影すると、「試験がないのは楽でいい。勉強なんてしなくていい」ということになる。)

 フィンランドでも、政治や行政による管理・監督はないが、教師に問題があれば、生徒や保護者からの批判は起こり得るという。だから、教師が生徒に対して直接責任を負えば、保護者や生徒の評価が一定の縛りとなる可能性はある。しかし、フィンランドで教師は基本的に敬意と信頼をもって扱われており、「批判は起こり得る」とは言っても、実際にはほとんどないようだ。つまり、フィンランドの教師は、いくら裁量権が大きく自由でも、それらを濫用はせず、期待に応えるだけの自己研鑽を積んでいることになる。

 日本で同様のことをした場合、フィンランドと同様になるのかどうかはよく分からない。と言うのも、日本人はもともと内面が確立されておらず、外から律せられることに馴染んでいるからである。たえず周りの顔色をうかがい、周りからどう評価されるか、いかに周りと摩擦を起こさないように出来るかを気にしながら生きてきたのが日本人である。その結果、思考は相対的となり、目前の利益(結果)にばかり敏感になった。そんな日本人は、利益をニンジンとして管理されなければ、最後まで手を抜く可能性もある。

 信頼し、任せるから頑張るのか、頑張る人たちだから信頼し、任せるのか。議論は堂々巡りで、どちらが先かはなんとも悩ましい。しかし、内面の確立を待つのではなく、人間の内部に頼るシステムを作るという方法に訴え、内面から支えられる人間作りに賭けてみなければ、日本人は今後長くに渡って、他律的で柔軟性と活力のない状況に甘んじ、負の連鎖に陥って、国際社会の中で孤立と停滞を強めていくしかないだろう。フィンランドのシステムとそれを支える人々の意識は、あまりにも理念的で上手くできている。(完)


(補)論文でもないので、典拠を明示していないが、福田誠治『競争やめたら学力世界一』(朝日新聞社)、同『フィンランドは教師の育て方がすごい』(亜紀書房)に非常に多くを負っている(本のタイトルは俗っぽいが、福田氏の見る目と分析力は極めて優れている)。他に、庄井良信・中嶋博編著『フィンランドに学ぶ教育と学力』(明石書店)、リッカ・パッカラ『フィンランドの教育力』(学研新書)、堀内都喜子『フィンランド 豊かさのメソッド』(集英社新書)を参考とした。