若者はいつ学ぶのか?・・・「教育のつどい」に出て



 今日は、仙台で行われた「みやぎ教育のつどい」というものに出席していた。これは、かつて「合同教研」と呼ばれていた、教職員組合による教育研究集会の名残である。何が「合同」かというと、小中学校と高校の教員が「合同」で学び合うという意味である。更には、保護者、県民も想定していたかも知れない。私が教員になった頃は、確か、問題別分科会(生徒会とか、不登校とか)と教科別分科会を別日程でのべ4日も、旅館に泊まり込みでやっていたような気がする。私が関わる「国語」の分科会も、当時は数十人が集まり、泣き出す人が出るほどの議論をしていたし、高校だけの小分科会もあった。ところが、学校の多忙化を中心とする諸般の事情で参加者が減少し、それにともなって集会そのものも規模縮小、今やついに両方合わせて2日間、しかも宿泊はナシ、というものになってしまった。

 今日の「国語」分科会参加者は部分参加も含めてのべ14名。しかもそのうち3名は退職者で、大半が50代という寂しい会になった。参加者数が全てではないけれど、参加者数は確実に「何か」を表す。

 我が職場でも、若い人を誘ってはみるが、忙しいという理由で断られる。忙しい理由の多くは、「部活」だ。これは難敵。教員の仕事を土日祝も含めて際限のないものにし、授業を中心とした学校にできない元凶はこれである。そもそも、3時過ぎまで授業があり、SHRが終わるのが4時近くで、教員の法定勤務時間はだいたい5時くらいまでなのだから、教員の仕事に「部活」が入り込む余地があると考える方がおかしい。ところが、世の中には「部活」をするために教員になったなどという人が相当数居て、教員内部からも「部活」批判はまとまりにくい。私としても、「部活」のメリットを全否定する気はない。しかし、メリットがあるなら何をしてもいいというわけではない。

 根本的な問題として私が危惧するのは、若い先生達は、いったいいつ勉強しているのだろう、ということだ。教研集会や講演会、読書会への参加だけではなく、自分で本を読むとか、文章を書くとかいうことも含めてだ。いや、多分、彼らはそのような時間はほとんど取れていないだろう。教科書通りのことを教えている限りは、それで困ると自覚することもなく、問題意識を持つこともないのかも知れない。

 管理職も、本人も、世間の人々も、おそらく、教員が「仕事」をしていれば納得し、安心し、評価するのだろう。苦しい生活をすればするほど、自分は頑張っているという自己満足は得られるかも知れないし、それを見る人は、あの先生は頑張っていると評価するのかも知れない。授業や学校と直接結び付くことをしていれば納得するが、一見関係のないことをしていれば、本人は「さぼっている」気分になり、周りからは「呑気な奴」にしか見えないかも知れない。しかし、それでは、目前はよいが、長い目で見れば確実に教育を貧しくする。教員が学ぶということをどのように考え、そのための時間をどのように保証し、実現させるか、そんなことにすら悩まなければいけないほど、今の学校は貧しい。