ベートーベン頌(2)・・・「希望の歌」



 昨日、愛知私学の「Bigフェスティバル」に参加し、藤澤ノリマサ氏自身と一緒に彼の「希望の歌」を歌って、涙が出そうになったという話を書いた。藤澤ノリマサとは、「ポップオペラ」というジャンルを提唱してヒットしている歌手で、もともと本格的に声楽家となるためのトレーニングをしていた人である。「ポップオペラ」とは、オリジナルのポピュラーソングの、さびの部分にオペラアリアを用いるという新しい音楽形式らしい。ただ、実際にはオペラだけではなく、もともと歌詞のなかったクラッシックの旋律や、バッハのコラールのようなものも用いている。そんな彼の「希望の歌」は、ベートーベンの第9交響曲のアレンジである。

 彼も、そのことは曲の紹介として口にしていたが、私がスゴイと思ったのは、「希望の歌」が「第9交響曲」のアレンジであると繰り返し語られながら、ただの一度も「ベートーベン」という名前が語られなかったことである。「第9交響曲」を作曲した人はたくさんいて、それが有名な曲である場合も少なくない(ドボルザークシューベルトマーラーなど)。にもかかわらず、このことは、ただ「第9交響曲」と言えば、誰の頭にも、間違いなくベートーベンのいわゆる「歓喜の歌」だけが思い浮かぶということを示している。

 音楽は、旋律と和声とを重要な要素としている。また、構造こそが重要な役割を果たしている曲と、響きが中心となる曲とに分かれるとも思う。ベートーベンという作曲家は、基本的にその構造の妙によって人の心を動かすタイプの曲を作る人である。先日(10月23日)取り上げた交響曲第3番「英雄」や第5番「運命」などはその典型であろう。ところが、この「第9交響曲」については、その第4楽章の中心となる旋律1本で、その価値を決定的なものにしている。

 1964年の東京オリンピックに、当時東西に分裂していたドイツが統一選手団を派遣した時に、国歌の代りに用いられたのがこの旋律だし、現在はEUが「国歌(?)」としている。もちろん、そのような使われ方をする背後には、旋律の美しさ、親しみやすさだけではなく、その旋律に乗せて歌われる歌詞(F・シラー作)も重要で、旋律が流れるだけで歌詞も思い浮かぶという状態になってこそ、その旋律は真価を発揮する。


歓喜よ(中略)、汝の不思議な力は、時流が厳しく引き離したものを再び結び合わせる。

 汝のやわらかな翼がとどまるところで、全ての人々はみな兄弟となる。」


 ベルリンの壁が崩壊した直後の1989年12月25日、バーンスタインが、東西ドイツとドイツ分裂のきっかけを作った連合国(米英ソ)との合同オーケストラによって、この曲をベルリンで演奏した時、「歓喜よ(Freude)」を「自由よ(Freiheit)」に変えて演奏したことは有名である(CDはドイツグラモフォン、429 861-2 この手のCDとしては珍しく、ただの「第9」のCDなのに、「自由への讃歌(Ode to Freedom)」というタイトルが付けられている)。藤澤ノリマサ氏は、この部分の歌詞をいじってはいないが、それは「希望よ(Hoffnung)」に変えると、音の当たりが弱くて歌いにくくなるからのような気がする。内容的にはそうすべきである。

 「ポップオペラ」である「希望の歌」には、当然、ベートーベン(シラー)にはない歌詞が付け加えられている。六ツ見純代という人によるその歌詞もなかなかいい。


「幸せだから笑うんじゃなくて、笑ってるから幸せになれる。

 微笑みを絶やさず、歩き出そう未来に。

 希望の歌を響かせて。」


 オリジナルがさほど注目されなくても、アレンジされることで脚光を浴びるようになる作品というのは、音楽に限らず少なくないだろう(音楽で言えば、ムソルグスキー作曲ラベル編曲の「展覧会の絵」や、映画音楽となったマーラー交響曲第5番など)。この場合、アレンジはオリジナルのエッセンスをうまく引き出して強調している、或いは、オリジナルに新しい命を与えていると言える。ベートーベンの「第9交響曲」は、アレンジされなくてもあまりにも有名で、特にヨーロッパでは作曲の直後から神聖視されてきたと言ってよいほどの名曲である。しかし、「希望の歌」のようにアレンジされることで、新たな意味が付け加えられ、命が与えられ、より多くの人に浸透していくなら、それはそれで素晴らしいことである。もちろん、藤澤ノリマサ氏の着眼も評価すべきだが、やはり、ベートーベンの音楽そのものに、それだけの力と普遍性とがあるのだと思う。