マーラーの俗臭・・・交響曲第2番「復活」を聴く



 今週は、私にとって例のない特殊な1週間であった。というのも、わずか数日の間に、グスタフ・マーラーの声楽入りの交響曲を2曲聴く機会があったからである。もちろん、1回目は名古屋の第8番、そして2回目は今日、仙台で第2番「復活」を聴いた。おそらく、仙台で第2番が演奏されたのは初めてのことである。名古屋の話が舞い込んでくる前から、今日の演奏会のことは知っていて楽しみにし、早い時期にチケットを入手していた。

 演奏したのは、飯森範親指揮する仙台フィル+山形交響楽団、合唱は山響アマデウスコア+仙台宗教音楽合唱団、独唱・平井香織(S)、加納悦子(A)であった。信じられないほど高品質な演奏であった。オーケストラはプロとしての高い技量を持っている上に、マーラーの第2番を演奏するチャンスなど彼らにも滅多にないためか、アマチュア的な緊張感、高揚感もあった。大半がアマチュアである合唱の上手さにも舌を巻いた。音楽が終わった瞬間、いつになく多くの「ブラボー」が飛び交い、立って拍手を送っている人も少なからず見られた。多分、これは仙台フィルにとっても、歴史的名演なのだろうと思った。

 しかし、今、私が「多分」などという変な書き方をしたのは、私の頭と心がチグハグで、素晴らしい「演奏」だと思う反面、まったく感動できなかったからである。その原因は、第2交響曲の持つ強い「俗臭」によっている。

 この曲は、第4楽章にアルニムとブレンターノが収集した『子どもの不思議な角笛』というドイツ民謡集から「原光」、第5楽章にクロプシュトックによる讃歌「復活」を歌詞とする独唱・合唱が配置されている。声楽においてひときわ非凡なマーラーの才能は、これらの部分にもいかんなく発揮されていて、素晴らしい「歌」を聴くことが出来るのだが、残念ながら、第1楽章や第5楽章前半を中心に、管弦楽だけで組み立てられている部分は、それらと全く対照的に俗っぽい。なまじ、第8番を直前に聴いてしまったために、この俗臭が、何とも鼻持ちならず強いものに感じられてしまった。

 逆ならよかったのだ。つまり、仙台で第2番を聴いて、1週間後に名古屋で第8番を聴くのなら、どちらにも感動できたのかも知れない。第2番にそれなりに感動し、第8番を聴いた時には、第2番の感動は色あせるだろうが、改めて第8番の偉大さに感銘を受けたはずだ。進歩・発展は面白いが、退化は退屈だ。第8番の後の第2番は苦しい。

 マーラーが第2番を作ってから第8番までにかかった時間は、ちょうど20年。おそらくこの20年で、マーラーは非常に高い境地へと上っていったのである。思えば、私も、高校時代に「いい」と思いながら聴くことの出来た唯一のマーラーの声楽入りの交響曲が、この第2番だった。今にして思えば、「大地の歌」や第8番よりも、第2番を「いい」と思っていた浅はかさに、自ら嫌悪感を感じるほどであるが、これとて、この30年間に自分なりの成長があったということのような気がする(必ずしも「若い」から「俗」というのではない。例えば、ベートーベンの第1交響曲のように、「若々しさ」が魅力という曲も少なくない。マーラーだって、第1交響曲は様式的に完成されているが、若々しさもあり俗臭も少ないと思う。また第8交響曲の2年前に書かれた第7番は、俗臭の強さという点において第2番と双璧である。マーラーという作曲家は、高貴さ・哲学的深さと俗物性を併せ持っていて、第8番以前では、声楽を伴わない場面で後者をあからさまにしてしまう場合があった、ということだ)。

 仙台からの帰路、私の頭の中に鳴り続けていたのは、相変わらず尾を引いている第8番なのであった。