ロジャー・ノリントン



 先月、ノリントンN響でベートーベンを振った映像を見たことから、彼の「幻想交響曲」の演奏(CD)を取り上げ、若干の考察を書いた。その直後、お年玉前借りで(?笑)ノリントンヤンソンスによる2種類のベートーベン交響曲全集を買い、年末年始、まずはノリントンをせっせと聴いていた。その途中、1月5日の夜、やはりテレビで、ノリントンがNHK交響楽団でベートーベンの交響曲第5番「運命」を振るのを見た。CD(ザ・ロンドン・クラシカル・プレイヤーズ)で聴く演奏の方が、N響の時よりもはるかに当たり前、逆に言えば、N響ノリントンの「運命」は非常に奇抜なものだった。

 「幻想交響曲」で、違和感のあるノリントンの演奏が、実は作曲者の意図をより忠実に再現しているのではないかという結論に達したわけだから、「運命」だって、奇抜なノリントンの演奏にただ顔をしかめているわけにはいかない。だが、いつになく丁寧にスコアをたどってみても、テレビで見た「運命」の特異なデュナミーク(強弱の付け方)は、やはりどうしても見えてこない。おそらくは、ノリントン自身の「創作」と言っていい解釈なのだろう。もちろん、その「創作」の背後には、古い音楽ほど、演奏者の裁量による即興的要素が認められていた(作曲者によって想定されていた)という、いわば時代的な演奏習慣(思想)に対する配慮があるのだろうが、その限界がどこまでか、ということについては、私には何とも言えない。

 テレビの「運命」で、奇妙なシーンを見た。ものすごい勢いで第1楽章を演奏し、最後の和音を鳴らして楽章を終える瞬間、ノリントンはひらりと身を翻して、半分客席の方を振り向き、動作を止めた。その動作に誘われるように、楽章の合間としては異例の拍手がパラパラと起こった。するとノリントンはにっこりと笑い、「もっと拍手をしたらどうだ?」というようなゼスチャーで観客を煽った。今度は、多少まとまった拍手が起こった。

 クラシックだからといって、音楽はしかめ面をしながら聴くものではないだろう。だが、ハ短調の、緊張に満ちた、楽想としても深刻な「運命」の第1楽章と、ノリントンのおどけた動作・表情はどうしてもうまくかみ合わない。それは、ノリントンの音楽に対する姿勢の何たるかを想像させるものだった。それは、ノリントンにとって、音楽はまず第一に身体的快感をもたらす「道具」なのではないか、ということだ。楽譜によって制約が課せられる一方、解釈というそこからはみ出すための手段を限界まで用いて、いかに肉体的な快感を得るか、ということこそが大切なのであり、その中に込められた「精神」というものは、二の次ということなのではないだろうか?

 自動車を運転する際、目的地に到達することが目的の人と、自動車を運転すること自体を喜びと感じている人とがいるだろう。ノリントンは後者だ、ということである。スピード感、きわどいステアリング、急激な加減速といったものによって、自動車を運転することの快感に酔いしれる。聴き手の側にもそのような人、そのような傾向があって、ノリントンの演奏を「面白い」と感じるのだ。音楽という「振動」によって伝えられるものが、そのような側面を持つことが必然である以上、それを「邪道」と言うことはできない。だが、それだけで済ませることもできない。深刻な音楽の代表格、マーラーの第9番など、ノリントンの手にかかった時に一体どのような音楽に仕上がっているか?それを聴いてみると、より明確にノリントンの姿勢が分かるかも知れない。


(補)上でも少し書いたが、CDはN響に比べると(あくまでも比較の問題)、ひどく当たり前の演奏である。音が美しく、緊張感もあるので、気持ちよくベートーベンに浸ることができる。「当たり前」から最も外れていたのは、「エグモント序曲」と第9番「合唱付き」であった。前者は、速くて音が軽い。「運命」とよく似た「暗→明」「悲愴→歓喜」という構造の曲だが、オーソドックスな演奏とは違うな、というだけで、だから「けしからん」とは思わなかった。これはこれでいいと思った。一方、第9は、特に普通でないのが、第2楽章及び、第4楽章の行進曲+直後のフガート風の部分の遅さと、第4楽章冒頭のチェロとコントラバスによるユニゾンの部分の激しさ、である。コントラバスはよいが、特に行進曲以下の部分は、遅い中にそれを支えるだけのメッセージが込められてるようには聞こえず、退屈に近い違和感が強かった。第9だけは、繰り返して聴こうという気にならない。