自民党と巨大防潮堤



 冬休み中、いろいろな新聞に目を通しながら、ずいぶん空気が変わってきたなあ、と感慨深く思ったのは、かの「防潮堤」に関する議論である。

 中でも、12月30日の『河北新報』で読んだ片山さつき自民党環境部会長のインタビュー記事には、その思いを強く抱かされた。それによれば、片山氏は「政府や党に何が何でも建設ありきとの主張はない。住民の意見や景観の調和を考えて作るべきだ。」と拙速な予算執行に釘を刺し、「コンクリートは10年たったらメンテナンスが必要。将来にわたる管理費は膨大になる」と批判したらしい。また、昨年の秋以降、安倍首相夫人も防潮堤建設に批判的もしくは懐疑的な言動を繰り返しているのが目に付いていたが、それは更に加速しているように思う。各地への視察を繰り返すとともに、12月には、「自民党本部で行われた東日本大震災の被災地の巨大防潮堤計画に関する会合」に出席し、「景観が崩れ、環境も破壊される。もう一度考えてほしい」と発言したことが伝えられた(1月8日『朝日新聞』)。景観の問題といい、維持管理のことといい、私が以前から繰り返している主張と同じである。

 巨大災害が発生した後は、とかく災害対策ばかりが重大事と考えられ、それが社会全体、長い時間の流れの中でどのような意味を持つのかということが、冷静に考えられない状況がある。災害の発生から時間が経つことで、目先の事態に振り回されない冷静さが少しずつ生まれ、それに伴って巨大防潮堤のバカさ加減も見えてきた、ということであろう。

 おそらく、震災遺構保存についての議論も、更に時間が経てば似たような道筋をたどると思われる。広い視野に立って多角的に検討するためには、やはり「時」によってもたらされる冷静さが必要なのだな、と強く思う。

 とはいえ、家庭内で「(巨大防潮堤建設)なんとかならないの?」と迫った夫人に対して、首相は「一度決まったものは変えるのが難しい」と答えたという。これは妙な答えだ。なぜなら、戦後日本が60年以上かけて積み重ねてきたもの(かろうじて守ってきたもの?)を、極めて破廉恥なやり方でガラガラと変えてしまった、もしくは変えようとしているのが、安倍内閣の1年間だからである。戦後60年の積み重ねよりも、2〜3年前に決まったことの方が重く変えにくい、ということはあり得ない。要は、その気があるかどうか、だ。

 ことは損得(利益)に関わる。「被災者の」ではない。「政治家や事業者の」である。

 被災地の復興事業が経済対策、もっと正直に言ってしまえば土建業の巻き返し、ゼネコンへの奉仕だということは、私以外の人間によってもしばしば語られることである。誠実でひたむきな事業者もたくさんいるだろうが、これこそがチャンスとばかりに利益に群がる、といった体の事業者も少なくないと思う。思えば、自民党という政党が、他の政党に比べるとはるかに長く安定的に維持されてきたのは、「権力と金銭的利益の追求」という理念(これを「理念」と呼ぶなら、であるが・・・)に貪欲で、ぶれがなかったからである。2月に行われる都知事選で、過去に自分たちが除名した人物を推薦しようなどという節操のないことができるのも、権力と利益が全てだからである。巨大防潮堤もこの延長線上にある。戦後積み上げられてきた平和理念の追求を変更するのは簡単でも、一度決まった防潮堤建設を変えられないのは、この論理で説明可能だろう。

 というわけで、巨大防潮堤に関して、いろいろな報道が見られたから、もしかしたら見直しもあるのではないか、という甘い期待をしているわけではないのだが、それでも、防潮堤に関する議論がタブーであるかのような状況が生まれるよりはよほどいいだろうと思う。巨大防潮堤の多くは現代のバベルの塔である。