私は言ったからね、やったからね・・・



 昨夜は、宮城県高等学校・障害児学校教職員組合(高教組)石巻支部の懇親会があって、街で酒を呑んでいた。石巻地区には、分校を別にして10の高校がある。にもかかわらず、正規の労働組合である高教組の懇親会に集まったのはたったの12名であった。しかも、そのうち2名は組合員ではない。お金を払って面倒な思いをするのは嫌だという人が圧倒的に多い今、私は、あと5年で組合も解散を余儀なくされるだろうと思っているので、この低調さに今更驚いたりはしないのだが、今の世の中に対する悲観的な気持ちが忍び込んでくるのは、どうしても避けられない。

 それでも、隣室の騒々しさに追われる形で、宴席はまずまずの盛り上がりを見せた。

 そんな中、隣に座ったY先生が、「学校で先生たちが雑談をするということがない。パソコンに向かうばかりで、本を読んでいる姿を見ることもない。先生たちは、目を吊り上げて忙しそうに走り回っている。いったいこれって何なんですかね?」みたいな話をした。それから思えば、宮水は職員室で馬鹿話・馬鹿笑いが聞こえることもしばしば。まだまだ健全だな、と思う。そんなことを思いながら、Y先生に「先生は、いったい何が原因だと思いますか?」と尋ねてみた。Y先生は考え込んでしまい、答えが出ない。

 私は、続いて「教育委員会や校長のせいですかね?」と尋ねてみた。組合などというのは、基本的にそれらと対立するのが役割みたいなところがあるので、活動家のY先生ともなれば、「当然ですよ!!」と答えるのかと思いきや、「どうなんですかね・・・?」と言ったきり、ますます黙り込む。仕方がないので、私は自分の思う所を述べた。

 「私は県教委や校長もともかく、先生たち自身の中に、そんな生活を求めているところがあると思いますよ。とにかくバタバタしていれば、自分は頑張っていると思い安心できる。言い訳もできる。それが結果として自分をやせ細らせ、貧しい教育をすることになったとしても、因果関係なんてはっきりさせられないんだから、今この瞬間に頑張っているという充実感を得たり、アピールをできる方がいいんじゃないですか?職場の人たちを見ていても、とにかく仕事を作り出そうとするし、見た目をきれいにしようとする・・・。ものすごく感じるのは、世間や保護者といった人々の目をひどく気にするということです。」

 Y先生は、「いやぁ、ほんとにそうですよねぇ・・・」と言ったきり、再び何かを考え込んでいる風であった。お疲れなのかな・・・?

 スピーチが行われた。私は次のように述べた(加除訂正あり)。

 「職場でいくら組合への加入を呼び掛けても、まず相手にされません。この前は、若い先生に、組合は政治的な色があるから嫌だ、と言われてしまいました。何かいいことありますか?と聞かれることもあります。私は、ありません、と答えます。しかし、明らかに、今の教育改革はすべて、民主主義とはまったく相容れない、政治家が自分たちの都合のいい学校を作ろうとするだけのものであって、その深刻な問題に気付いてしまえば、いくら損でも活動しないわけにはいかないんです。本心を言えば、私は職場の先生たちが組合に入るとは今や期待していません。平和ボケの中で、満足しきって生きている、あるいは、多少の問題があるにしても、わざわざお金を払って面倒な活動はしたくない、というのをすごく感じるからです。じゃあ、私がなぜこんなことをしているかと言えば、自己満足なんですね。数年か、十年か、十数年か、数十年か経って、いよいよ世の中が行き詰まった時に、ほら見ろ、私はあの時これだけのことを言い、やったからね、と言えるようにしておきたい(←参考:2013年11月12日記事)。そしてその時、ああ、やっぱりあの時、平居の言ったことが正しかった、平居の言うようにすべきだった、と言われると確信しているわけです。組合に入って何かいいことありますか?と問われれば、やっぱりいいことなんてない。ただ、そういう時の「いいこと」は目前の「いいこと」です。そういうレベルで「いいこと」を求めることが、直ちに組合衰退の原因であり、私たちはそのような価値観を超えるべきだ、と思うわけです。」

 教職員組合は、給料や勤務時間といった待遇に関することよりも、「民主主義国家の教育」を守る、という要素が強いので難しい。