フィルム世代とデジカメ世代



 そういえば昨日、出港式から学校に戻ると、机が隣り合わせの情報支援員 I 嬢(宮水ホームページ作りの優秀なるパートナー)と、期せずして同じことを言いながらため息を漏らした。「あ〜あ、写真撮り過ぎちゃった・・・」

 思わず顔を見合わせて、ほとんど同時に、お互いに「一体何枚撮ったの?」と聞いてしまった。驚いたことに I 嬢の答えは「300枚ちょっとかな・・・」で、私の答えは「31枚」だった。同じ嘆息を漏らしたにもかかわらず、それぞれが撮った写真の枚数は、正に桁が一つ違ったわけだ。

 思い当たることがある。私が少年時代、写真と言えばフィルムで撮るものであった。もちろん、撮り直しも加工もできない。街で売られていた一般的なパトローネ(=カートリッジ)入りのフィルムは、「12枚撮り」、「20枚撮り」、「36枚撮り」で、私が小学校を卒業する前後に、「20枚撮り」がサービスの形で「24枚撮り」に変わった。1本のフィルムで撮れる枚数は最大でも36枚(実際には38枚くらい撮れることもあった)だったわけだ。だから、たった30分の出港式+出港シーンでフィルム1本分というのは、「写真撮り過ぎちゃった」のレベルなのだ。一方、I 嬢は約30歳。意識して写真を撮り始めた頃には、既にデジカメの時代になっていた。写真は、容量の小さいSDカードを使ってさえ、36枚をはるかに超えて撮れる上、要らない写真は消去できるものなのである。

 今までにも幾度か書いたとおり、私はアナログ人間である。しかし今は、安物のデジカメ(昨年の盆踊りで当たったNikonのカメラ。私が人生で初めて当てた「1等」の賞品である)を使っている。それでも、フィルムの時代の感覚が残っていて、4ギガのSDカードが入っているにもかかわらず、どうしても安易にシャッターが切れない。一方、彼女は連写機能を使って、手当たり次第に写真を撮り、数百枚の中からいいものを選ぶ。決意して切ったシャッターが、それほど貴重な一瞬を捕らえているとも思えないが、迷った時にはとりあえず撮る、というデジカメ世代とは、どうしても同じにはならない。

 学校のフォルダに入れられた写真をチェックしつつ、I 嬢が突然素っ頓狂な声を出した。「平居先生が撮ったこの写真いいですねぇ。ホームページはどうしてもこれだわ・・・。だけど、31枚しか撮っていないのに、悔しいぃ〜。」

 I 嬢が私の写真を採用しようとしたのは、単なる偶然に過ぎない。少なくとも、私が特別に写真が上手いということはあり得ない。それでも違いがあったとすれば、「惜しむ」かどうかだ。フィルム写真が駆逐されてデジタルになることで、1枚の価値は間違いなく低下した。だが、たくさん撮りさえすれば、その中にいいものが含まれるとは限らない。便利さは、絶えず人間の能力を低下に誘い、便利になればなるほど、人間はそれと戦うことを求められる。私自身が、デジカメの便利さに流されないようにせねば・・・と自戒したことであった。