先週の水曜日、仙台の河北新報本社で行われたNIE(Newspaper in education)の高校部研修会というのに出席した。県内某高校の教諭が、夏に行われたNIE全国大会の報告をし、その後、某全国紙の仙台支局長が「新聞 デジタル化の今」と題した講演を行った。
本来、「某全国紙」などと書くのは変で、はっきり「○○新聞」と書けばよいのだが、なかなかに赤裸々な暴露話だったので、そこで示された数字も含めて、さすがの私も実名での記述にためらいを感じる。
話は非常にショッキングであった。特にこの5年間の変化、はっきり言ってしまえば新聞発行部数の落ち込み=新聞離れは尋常ではない。支局長氏の考えによれば、新聞はスマホと時間の奪い合いをしているのだが、スマホが第4世代になり、通信速度が上がったことで、人々が決定的にスマホに傾いた。自動車会社が一つ倒産しても、人は他の自動車会社から車を買うだろうが、新聞社が倒産したら、人はそのまま購読を止めてしまう。一度購読を止めれば、新聞を読む習慣そのものがなくなってしまうため、再び購読を始めるということはほぼ起きない。その意味で、自動車メーカーの倒産と新聞社の倒産は意味が異なる、とも言う。しかも、購読の停止は、購読契約をしている本人だけの問題ではなく、家族全体に及ぶ。子どもがいれば、新聞非購読者を拡散させることになる。
話を聞いていてショックなのは、それがとてもリアルなこととして感じられるからだ。最近私は、日頃生徒や同僚と話をしていて、新聞というメディアの影が非常に薄くなっていることを痛切に感じている。生徒だけではなく、教員もであるところが深刻な問題だ。
先週の日曜日に、私の著書の書評が河北新報に載った、という話を書いた(→こちら)。過去2回は、「河北に載ってたねぇ」とか、「書評見たよ」とか声をかけてくれた人が何人かいたのに、今回はゼロである。100人近くも同僚がいて、本当にゼロなのだ。
支局長氏も、近いうちに新聞社の倒産は出るだろう、と言う。新聞というメディアがどれだけ特別なのか、本当になくなると困るのかは、冷静な検討が必要なのだろうが、私は困ったことだと思っている。
新聞は、記事がきちんとした取材によって書かれているという点で、信頼性が高い。各界のいわゆる「有識者」と言われるような人々が、数多く執筆している。一覧性(俯瞰性)が大きく、世の中の様々な問題に目を見開かされやすい。紙の形で固定されているため、繰り返して読みながら思索を深めやすい。こんなメディアを捨て、得体の知れないネット情報に頼って世の中の様々なことについての善し悪しを判断するようになることが、世の中を誤らせないわけがない。新聞業界の崩壊は、人々の知性の崩壊を象徴することになるだろう。政治家はそれを熱烈に歓迎する。
恐ろしいのは、人間がそうなった時に、人は自分の問題点に気が付けない、ということである。勉強をしなかろうが、新聞を読まなかろうが、人と議論をしなかろうが、人間は自分こそが正しいと思う、そういう生き物である。「無知の知」を体得している人間でなければ、自分の現状に疑問を持ち、問い直しを行うことはできない。
しかも、日本人は外国人(特に西洋人)に比べ、他の人達の顔色を窺い、自分の行動を決定するという傾向が強い。「新聞なんてみんな取っていないよ」というのが、どれほど説得力のある言葉になることか。生徒と話をしていても、既に新聞を取っている家庭は5割を切っているだろう(近いうちに調査してみる)。「新聞なんてみんな取っていない」の連鎖反応が起こる条件は整っているのである。
支局長氏は「2030年問題」ということも言っておられた。団塊の世代が80歳を迎える2030年頃、彼らは新聞購読を継続するか?という問題らしい。もっとも、この5年間の新聞発行部数の落ち込みを聞いていると、新聞が2030年まで生き延びることさえ相当に困難であると思われてくる。
人間が内部崩壊を起こさないために、この流れはなんとか食い止めなければならないのだが、NIEの学習会も出席者は10名ほどだった。・・・