ベルリンをめぐる思い出

 一昨日、「ベルリンの壁崩壊30周年」に触れた「学年だより」の記事を載せた。それに関連して、自分とベルリンの関係(と言うほどのものではないのだが・・・)を少し書いておこう。いろいろと社会的問題を含む話になる。
 私は、東西冷戦最中のベルリンに行ったことはない。初めてドイツに行ったのは、1983年2月のことで、最初オランダのアムステルダムから列車で西ドイツに入った。計画なんてあってなきがごとしの旅行だったが、東ドイツに入るのには、当時ビザが必要だったし、ビザを取るためには滞在1日あたり25ドルだったかの強制両替があった。ユースホステルとスーパーマーケット利用で1日10ドルちょっと、というギリギリの節約旅行をしていた私には厳しかった。
 ミュンヘンで、西ドイツの某大学に留学して音楽(作曲)を学んでいる日本人と知り合った。彼は、ベルリンフィルの演奏を聴きに、かなり頻繁に西ベルリンを訪ねていた。その時私は、東ドイツ国内の飛び地である西ベルリンへ、飛行機以外で行く方法を初めて知った。彼は、パスポートにたくさんのスタンプを持っていた。全てベルリンへ行った時に押されたものである。それによれば、ベルリン行きの鉄道に乗り、東ドイツに入った時と、出る時=西ベルリンに入る時にスタンプが押される。スタンプには、確か列車番号が入っていたように記憶する(←曖昧)。つまり、それが列車にちゃんと乗ってきましたよという証明なわけだ。列車は東ドイツ国内を通るが下りられない、実質的に封印列車なのである。その列車に乗るだけなら、強制両替もビザも必要ない。そして、西ベルリンからなら、強制両替はあるが、1日だけならビザなしで東ベルリンに入れるという。しかし、西にいても見たいものが山のようにあって時間に追われていた私は、そのために少なくとも3~4日の時間を取る気にはならなかった。ベルリンの壁はほとんど永久に存在するものと思って油断(?)してもいた。
 その6年後、私は南米を旅行していた。ブラジルからヨーロッパに飛び、ソ連からシベリア鉄道で帰国しようと思った。南米からオランダの友人に、アムステルダムでベルリン・ワルシャワ・モスクワ経由で日本までのチケットとソ連のビザを手配するのに何日かかるかと問い合わせたところ、2週間くらいだという返事が来た。事務手続きに2週間かかるということは、日本まで1ヶ月かかるということである。
 その時、私は県立高校への就職を目前にしていた。大学院の前期課程修了後、奨学金の返済猶予期間である1年間はモラトリアムすることに決めていた私は、教員採用試験の2次試験が9月の下旬に終わると、中南米駆け足旅行に出発した。出国の直前、県教育庁に、かくかくしかじかの事情で3月半ばまで日本を留守にしたい、その間に合格し、就職に関する手続きがある場合は待って欲しい、とお願いに行った。どういう立場の人が応対してくれたかは分からなかったが、即座にダメだと言われた。2月に入れば、赴任先の学校からいつ連絡が入るか分からない、それを自宅で待つように、と言われた。とりつく島がなかった。1月31日に帰国するのと、3月15日に帰国するのとでは、1ヶ月半の違いがある。1ヶ月半あれば、多くの場所を訪ね多くのものを見ることができる。そんな見聞の蓄積は、教員として仕事をしていく上でとても価値があると思われた。が、県はそう考えないらしい。私がその時間の価値をいくら説明しても、あくまでも2月1日以降自宅待機をし、事務手続きに遅滞が生じないことを求めた。私は、以来35年近く、県教委が「教員の資質の向上」や「自己研鑽の重要性」を語るたびに、この時のことを思い出す。そしていつも、侮蔑と反感が湧き起こってくる。ちなみに、赴任先の高校から連絡があったのは2月20日頃で、行ってみても、事務手続き(校長面談?)は形式的で些細なものだった。
 南米の旅行期間を約1ヶ月短縮して、ベルリン~ソ連に費やすことは、どちらの方が就職後に再訪しやすいかということを考えた場合、デメリットが大きすぎると思った。その判断は決して間違っていたとは思わないけれど、それによって、私は現役の「ベルリンの壁」を見逃した。壁が崩壊したのは、私がブラジルからやむを得ず2月1日の飛行機で帰国した約9ヶ月後である。
 ようやくベルリン訪問が実現したのは、2008年8月のことである(→その時の記事)。壁は記念物として、ごく一部だけが保存されていた。役割を失った壁に、私はさほどの感慨を感じることはできなかった。絵はがきには、壁の小さな破片を付けたものが多く売られていた。壁は商売の対象になってしまったのである。もしかすると、市内に壁の一部が保存されているのも、歴史を学ぶための遺物としてではなく、観光名所「壁のあった町ベルリン」のためであるかも知れない、と思えて、少し興醒めだった。
 私は、その後ベルリンを再訪していない。