ドイツ訪問記 第八話(東と西、最後に)


【東と西】

 24年前、東に行けなかった理由は既に書いた。前日の夜、ドイツ人が東と西の問題をどのように考えているのか、現在の東と西をどう見ているのか、バーンドに尋ねてみた。答えは非常にドライだった。東欧革命=東ドイツの崩壊=ドイツの統一が1990年だから、バーンドにしても20歳を過ぎてからの出来事であり、ショッキングな出来事であったはずなのに、そういう気配は微塵も感じられなかったのである。東西の分裂などまるでなかったかのように、彼は淡々と、私の尋ねたことにだけひどく簡潔に答えた。彼によれば、既に東と西の格差などほとんど存在しない、あったとしても、10%程度ではないか、旧東領内は大抵行ったが、同じドイツだ・・・。彼の話を聞いていると、私の方が過剰なまでのノスタルジーというか、むしろ違うこと=エキゾチックであることに対する「期待」を持っているような気がしてくる。

 グッドルンの運転する車は、予定通り約2時間半でアイゼナッハに着いた。確かに、何の違いも感じられない。既に書いたとおり、ここでヴァルトブルク城とJ・S・バッハの生家を訪ね、グッドルン及び二人の娘と別れると、鉄道でヴァイマールへと移動した。ヴァイマール公国の都であり、ゲーテに代表されるドイツロマン派の震源地であったこの町も、現在では人口約6万人の小地方都市に過ぎないことによる落ち着き、静けさはあるが、別に「東」を意識させるものはなかった。

 しかし、ヴァイマールを出てライプツィヒへ、そしてベルリンへと移動するにつれて、どうもそうでは済まないのではないかと思うようになってきた。それは、列車の窓から外を見ながら景色の美しさに歓声を上げることがだんだん減ってきたことによく表れている。繊細な、見事に手の加えられた、隙のない美しい家や庭が減って行き、逆にセイタカアワダチソウのぼうぼうと茂る空き地、もしくは荒れ地というべきものが目につくようになってきた。人の住まない、荒れるに任せた家も少なくない。建築途中の建物も多い。特に、東ベルリンやライプツィヒのような大都市の中心部では、大規模な解体、建築工事が至る所で行われていた。古めかしいドイツの歴史的都市に不似合いなモダンな建物(モダンな建物が直ちに悪いわけではない。不調和でセンスを感じないものであることが問題)や路上にむき出しになった無粋な配管も、東側に行かなければやはり見ることは出来ないような気がする。経済的にも、そして意識の洗練の度合いにおいても、東と西の間にはまだまだ格差は大きいように思えた。一方、現在、東が猛烈な勢いで西へと同化のプロセスをたどっていることも実感できた。

 かつてベルリンは壁のある街だった。今は、歴史的遺物としてごく一部に保存されているに過ぎない。壁は砕かれてお土産に変わり、商売の材料としてだけ価値を持っているように見えた。ベルリンの壁は総延長が155㎞あったが、それはほとんど一夜のうちに築かれたという。築かれるのが短時間なら、壊されるのも短時間だった。私は、高校時代、自分が生きているうちにベルリンの壁や38度線がなくなるということなどあるのかなあ、と漫然と思い巡らせたことを覚えている。今やそのうちの片方は完全にない。壁は出来たら出来たで、なくなったらなくなったで、人々はその現実をごく短時間の内に受け入れ、納得してしまう。私達の日常でも、こんなことが起こったら大変だ、あんなことが起こったら生きていけない、などという言葉を時々耳にするが、案外そんなことはないのだろう。東ドイツを支えていたのが、ごくごく少数の高級官僚と将校だけということがあるわけがない。一般市民の中にも、積極的な支持の姿勢を示していた人から、何もしないことで容認していたという人まで温度差はあるだろうが、東ドイツの指導体制を支えていた人はそれなりの数がいたはずなのである。東が崩壊した時、亡命したり自殺したりした人などは、そのうちの極めて少数に限られているはずで、その他の人は、多少の心理的葛藤はあるにしても、何事もなかったかのように今のドイツで生きているに違いない。これは、1945年、終戦後の日本を見ても同様である。人間という生き物のそんな性質は便利・好都合だとも言えるし、軽薄だとも言える。 

ベルリンで、たまたま列車の窓から見つけた「のみの市」を見に行った。それぞれの店には専門があるが、全体としては食料品以外何でも売っている巨大な青空市場である。その中に、何件かの東ドイツグッズ専門店があった。扱っている品物で最も多かったのは、東ドイツ軍人の勲章や肩章、軍服のボタンや帽子、であるが、その他に写真、お金、切手などが売られていた。聞くところによれば、市内には東独グッズの常設専門店もあるという。なかなかの人気らしい。

 壁の破片と同じことだ。実用にはなりそうにもない品々が売れるのは、既に滅んでしまった物の歴史性が、何となくロマンを感じさせるからであって、それ以上でもそれ以下でもないだろう。しかし、結局のところ、それは商売のネタでしかない。

【最後に】

なんだか時間の流れに沿わない、変なレポートになってしまった。最後に、今回訪ねたいくつかの場所について簡単に触れておく。

 昔=若かった頃は、美しい風景や壮大な建築物には心惹かれても、「ここは昔、誰々が何々した場所」などというものにはあまり関心が持てなかった。ところが、歳を取るにつれて、むしろそのような由緒・来歴に妙に興味を持つようになってきた。

 そんな私が、好んで訪ねるのは墓と学校である。もっとも、今回は私個人の物見遊山が目的の旅行ではなかったということもあって、思いには任せなかった。墓では、ヴァイマールの中央墓地。ここにはゲーテ、シラーという誰でも知っている人の他、作曲家J・N・フンメルや、人妻ながらもゲーテの理想の女性像のモデルとなったと言われるシャルロッテ・フォン・シュタイン婦人などの墓があって歴史に浸れた。

 ライプツィヒライプツィヒ大学森鴎外や蔡元培(中国近代教育界の大御所)の学んだ場所だし、同じくライプツィヒの音楽院は創設者がメンデルスゾーンで、日本人には滝廉太郎の留学先として有名だが、最近の私の学問的な関心からは蕭友梅(中国近代の音楽教育の開拓者)の学んだことが重要である。ベルリンではウンテルデンリンデン大通りにあるフンボルト大学。ここはかつてベルリン大学と称し、哲学者・フィヒテヘーゲルが総長を務めた所で、歴代の教授や卒業生には世界の学問の歴史を作ったような著名人がずらりと名を連ねている。森鴎外はここでも学んだ。大学ではないが、なかなか感心したのはベルリン市立図書館である。ツタの絡まる荘重な歴史的建造物で、「学問」に対する畏敬を感じる場所であった。

 一般的な観光地では三カ所。ひとつは西ベルリンのウィルヘルムカイザー教会。これは、第二次世界大戦空爆で壊れた教会が、そのままの形で保存されているもので、いわば広島の原爆ドームのようなものであるが、その迫力たるや全く比較にならない。もともとの建物のスケールが違うからかも知れない。原爆ドームを見た時に、その小ささに拍子抜けしたのに対して、こちらはまるで空から巨大な斧か何かで叩き壊されたようなすごみを感じた。戦争の悲劇というよりは、ヒマラヤの高峰を間近に仰ぎ見た時のような、存在感と迫力に対する純粋な感動である。宿が近かったせいもあるが、この教会の残骸は何度も何度も見に行った。

 ベルリン近郊、ポツダムのサンスーシ宮殿、ツェツィーリエンホーフ宮殿は、どちらも非常に美しい建物と庭だった。評判の場所が期待を裏切らないのは珍しいかも知れない。

 サンスーシ宮殿では、宮殿の裏向かい、1〜2キロ離れた丘の上に、遺跡らしき物が見えている。これは、古代ローマに対する非常に強い憧れを持っていたフリードリッヒ大王が、自分の住む場所からは古代ローマの遺跡が見えなければならないと作ったイミテーションだという。これは驚愕に値した。

 ツェツィーリエンホーフ宮殿はポツダム会談の会場になった場所である。「宮殿」という呼び方は誤解を招きかねない。宮殿というよりは、非常に立派な堂々たる「お屋敷」である。庭も花咲き乱れて美しく、建物も重厚で落ち着いている。街から適度に離れ、目の前に湖が広がっているというロケーションもよい。「宮殿」など、外見ばかり立派で、実際に住むにはふさわしくなさそうなものが多いが、これは住んでみたいと思わせるものだった。

 本来の目的が別にあって、自分の見たいところへ行くのは二の次以下という旅行だったが、思いの外にあちこち回れた。ドイツ(ヨーロッパ)の自由旅行などいとも簡単。諸君程度の英語力でも、ほとんど日本国内を旅行するのと同じ感覚で回れるはずだ。移動も宿泊も、行き当たりばったりでどうにでもなる。私がした何かの話から、自分も大学に入ったらあちこち回ってみたいと言う人は多いが、大学入学後、それを実行した人はほとんどいない。ただやっぱり、これは勉強になるよなあ、とつくづく思ったことであった。

(終わり)