ノーベル賞



 先週は、ノーベル賞と株価の大暴落という明暗対照的なニュースで新聞紙上が埋め尽くされていたかのような一週間だった。

 私は専門家ではないので、ノーベル賞の受賞が決まった人達の業績がどれほど優れたものであるかはよく分からない。報道によると、いかにも立派な業績だが、他にも星の数ほどいる理系研究者の中で、彼らの卓越性がどれほどであるかは、軽々に判断してはいけないと思う。たとえノーベル賞といえども、ノーベル賞=すごい!と考えることは、人に判断を委ねてしまうことだからだ。

 しかしながら、人々がノーベル賞をスゴイと思うことには、あながち根拠がないとは言えない。それは受賞者の偉さではなく、ノーベル財団、若しくは実際の選考作業をしているスウェーデン王立アカデミーなり、カロリンスカ研究所なりの偉さ(信頼)である。これらの所が、過去に一度たりとも情実(賄賂を含む)で受賞者を決めたことがあれば、今のような権威は生まれなかったはずだし、受賞対象となった研究が時間の経過の中でボロを出したという例は皆無ではなかったようだが、最少でなければ、やはり評価は地に落ちるだろうからだ。(矢野暢ノーベル賞中公新書ノーベル賞の歴史と背景を大変よく描いていて面白い。一読を勧める。なお、矢野氏はただのジャーナリストや作家ではなく、ノーベル財団と日本のパイプ役をを務めていた京都大学教授である。だからこそ書けた作品だ。)

 多くの報道の中で、私は、物理学賞を受けることになった益川氏の言葉を、大きな感銘を持って読んだ。「私の喜びは2002、3年に私の理論の正しさが実験によって証明された時にこそあった。ノーベル賞も含めて、その後の大騒ぎは社会現象に過ぎない」何と完璧、純粋な科学者としての精神に満ちた冷静な言葉だろう!

 なお、今回の日本人の受賞に関連して、ほとんどの報道が、喜びの背後にある二つの大きな問題(頭脳流出、基礎学問軽視)を指摘していた。熟考に値することだ。