得る者は何からでも得る



 素晴らしい天気に恵まれた気持ちの良い強歩大会であった。逆に気温が高くてリタイアが増えたという話もあった。私は予定通り、五橋交差点で立ち番、最後の生徒を見送った後、ランナーに変身して気持ちの良い汗を流した。

 私が走りながら、面白いなあと思ってみていたのは、役員諸君の表情と対応だ。いかにも面白くなさそうに、仕方がないからそこにいる、というような人から、走者(歩者?)として参加している人にいちいち声をかけたり、見るからにテキパキと気を利かせながら動いているらしき人まで、本当にいろいろだった。一生懸命歩いている人が、そのことによって何かを得るのは当然だが、役員は、気持ち次第で、貴重なものを得る人も、何も得ない人もいるのだろう。結局、学ぶ人は何からでも学ぶし、学ばない人は、仕方なくやっていることはもとより、たとえその人が学びたいと思っている分野・場所においてすら、たいしたことは学ばないのではないか。そんなことを思った。

 私は走り終えて、たくさんの人に褒めてもらったり祝ってもらったりしたが、私自身としては、9月の始めに宣言した通りに、予定したことを行い、予定した通りの結果を出したに過ぎない。ただ、予定は狂わないという保証がないので、予定通りの結果(240分以内)が出たことについては安心にも似た喜びを感じている。人からは順位のことばかり言われるが、私は順位は一切考えず、各関門毎に240分でゴールする可能性と、そのためのペース配分だけを考えていた。順位は副産物である。努力する者の姿勢として、「打率は気にしない、ヒットの本数だけ考える」というイチローの哲学は偉大だ。比較の中で生きることは常に苦しい。

 強歩大会はやることがとても単純だが、他のより複雑なことについても、私は同様の自己管理で目指す結果を出すことが出来ると思っている。手強いのは、私が教員として、人に結果を出させようとする時だ。私のやり方を真似し、または言うことを聞いてくれると事は簡単なのだが、大抵の場合、私のやり方は諸君のお気には召さないらしい。ゴールは見えない。