ノーベル賞でもやもや

 本庶佑氏がノーベル賞を受賞した。長年地道な研究を重ね大きな成果を出した方に対して、純粋に敬意を捧げ、お祝いしたいと思う。
 だが、その後の報道を見ていて、2〜3のことを感じる。
 10月2日、受賞決定翌朝の河北新報の記事には、「自身の研究が発展すれば、『やがてがんは克服できるだろう』と希望を語る。」と書かれている。私は、がん、脳卒中、心臓病といった、日本人の死因の中で大きな比率を占める病気が克服されたら、世の中は痴呆老人であふれ返るだろう、と思っている。
 私は、人並みに生きていたいと思うし、病気になれば治したいと思う。だが、誰でも彼でも90歳、100歳、いや、それ以上生きられる世の中がいいとは思っていない。病気を治す技術がいくら進歩しても、脳の劣化は止められない。少なくとも、今の医療の発展を見ている限り、医療は精神(脳)よりも肉体の側に著しく偏っていて、肉体の病気が治せるようになったほどに、脳の劣化を止める、あるいは遅らせる方法は進化していない。だから、病気、特に命に直接関わる重大な病気が治るようになればなるほど、痴呆老人が増えるに違いないのである。それは大変な事態だ。がんの特効薬を喜んでばかりはいられない。
 本庶氏がノーベル賞を受けるというニュースによって、オプジーボが改めて脚光を浴び、がん患者からの問い合わせが大きく増えているそうだ。オプジーボは、2014年に認可されてから、既に薬価が75%以上も切り下げられている。それでも、高額であることに変わりはない(1回の投与で約40万円)。使用量が大きく増えるようなことになったら、これまた大変。増え続ける薬価をどうすべきかというのは、先日も少々書いたけれど、とても深刻な社会問題だ。以上2点は、いつものようないじけた批判ではなく、私自身がどう考えればいいのか当惑している問題だ。
 本庶氏は、ノーベル賞の賞金に、薬の特許使用料を加えて1000億円規模の基金を起ち上げることを考えているらしい。若い研究者を支援するための基金である。いくら「すぐに」ではなく、「将来的に」だとは言っても、その規模の大きさに驚く。ノーベル賞の賞金がいかに高額とは言え、今回は2人で分けて、1人あたり約5800万円である。だとすれば、残りの999億4200万円は、寄付金も当てにはしているのかもしれないが、大半は特許料ということなのだろう。(薬価にはこれだけのもうけが含まれる、ということである。)
  本庶氏が基金を起ち上げる根っこの所に、国が主導して大型プロジェクトを決め、多額を投じる「選択と集中」型の科学研究予算に対する疑問があるらしい。国の科学予算(科学政策)に大きな問題があることは、日本人がノーベル賞を受ける時に、記者会見で必ず語られることである(→関連記事)。
 「選択と集中」型の予算を組むためには、研究の将来性を正しく評価できることが条件となる。だが、優れた研究の多くは、純粋な知的好奇心や、人を救いたいという人間愛によって生まれてきたのであって、成果が現れるまでにたいてい長い時間がかかっている。本庶氏だって、自身の研究を「誰も見向きもしない石ころを磨き上げ、ダイヤモンドに仕上げていく」作業だったと振り返っている。ダイヤモンドにするという信念はあったかもしれないが、それが果たして現実的な確信であったかどうか・・・?同時に、「石ころ」は「誰も見向きもしない」ものだったのである。
 哀しくなるほどの目先の利益主義。それと価値ある研究は相容れない。したがって、今の日本政府に真の科学政策は期待できない、ならば、自らがやるしかない。本庶氏の基金はそのようなものであろう。しかし、愚昧以外の何ものでもない現政府は、基金の話を耳にしたところで、本庶氏が抱いている問題意識も、基金の意味もまったく理解出来ないはずだ。高額薬価は基金に貢献するわけだから、そう考えれば悪くはないのかな?とも思う。

 最後に、おまけを一つ。日本人が受賞しなかった物理学賞、化学賞についての報道が少なく、小さすぎる。喜ぶべきは科学の進歩であり、それを実現させた人々に対しては敬意を持つべきだ。そこに国籍は関係ない。日本人の受賞だけをことさらに大きく取り上げ、根掘り葉掘り報道する、これも現政府の学問に対する見識の低さと双璧を為す偏狭と見える。