文化勲章は「名誉」で十分

 今日は文化の日。もちろん、祝日であるという以外、私には何の関係もない。私は、日頃から十分に文化的な生活をしている(笑)。
 昨日、朝日新聞「ニュースQ₃」欄で、「文化の日」を「明治の日」にしようという動きがあるという記事を読み、初めて知ったわけではないけれども、なんとなく不愉快になった。「文化の日」は明治天皇の誕生日で、戦前は「明治節」だった。そのことに対する執着を持つ人々がいるのである。
 今日は朝から、新聞で受賞者の一覧にざーっと目を通す。勲章なんて私には(将来も)縁がないし、欲しいと思ったこともないので、欲しいと思う人の心境、受賞する人の思いというのがまったく理解できないのだが、このようにしてランク付けされる気分って、どういうものなのだろう?同じ大学の名誉教授が、片方は○○賞で、片方は△△賞という場合、ご本人たちは納得するのだろうか?

 また、国民栄誉賞と同じで、誰に何賞を与えるかで、政府が国民の人気取りをしているかのような所もあり、それが私には気に入らない。
 文化勲章には更に文句がある。
 ひとつは、ノーベル賞受賞者が必ず文化勲章を受けるという慣習について、である。ノーベル委員会の判断と日本の判断とが違っていても、何ら問題はないのに、あわてて文化勲章を与えるというのは、ノーベル委員会の決定に対して非常に卑屈だとの印象を抱く。
 以前、このブログに書いたことがあるのだが(→こちら)、2009年12月15日、ロバート・ヘフトという人の訃報が新聞に載った。現在のアメリカ国旗の考案者らしいのだが、面白かったのは、そのデザインに低い点数をつけた高校の美術の先生が、ヘフト氏の作品が政府によって採用されるや、一転、高い点数を与えたということであり、そのことが小さな訃報に載るほどに語り伝えられている、ということである。私は、「当選したことによって、高校の担当教諭が評価を変えたのはお粗末としか言いようがない。教科としての判断と、いわば政策としての判断なんて一致する必要は全然ないのに・・・」と書いた。ノーベル賞受賞が、わずか1ヶ月半後に文化勲章受賞者に名を連ねているのを見ると、そんなことを思い出す。
 もうひとつ。文化勲章は、受賞すると毎年350万円の年金を受け取ることが出来るようになる。文化功労者も同じだ。私は、そんなお金を出す必要はないと思っている。
 文化勲章は、結果がはっきりと目に見え、しかも早く出がちな理系の研究者を別にすると、だいたい80歳を一つの目安にしているようだ。文化功労者はそれより少し若いが、どちらも既に功成り名遂げた人達ばかりで、今からますます研究費がかかるということもなく、お金に困っている可能性はゼロだ。むしろ、芸術分野の人を中心に、大半は「お金持ち」であるに違いない。だったら、たかが350万円とはいっても、毎年文化勲章5~6人(おそらく5人と決まっているのだが、ノーベル賞受賞者が出ると慌てて追加するから、その時だけ6になったり7になったりする。滑稽!)、文化功労者に至っては20人、しかも終身だから、現在ご存命の受賞者が何人いるかは知らないが、バカに出来ない大きな金額になるに違いない。
 文化を振興するためであれば、年々減額されてピーピー言っている大学の研究費に回してあげた方がよほどいい。「博士」の就職難も異常事態だ。そのお金で若手研究者100人か200人分くらいのポストは簡単に用意できるだろう。文化勲章文化功労者も「名誉」で十分ではないか。或いはせめて、一時金100万円、といったところか。
 不思議なのは、文化勲章文化功労者の発表が10月29日、その他の受賞者は11月2日と非常に遅いことである。もちろん、ご本人たちは授賞式に出席する必要があるから、早くから知らされているのであろうが、一般への発表はとにかく遅い。ノーベル賞が2ヶ月前に発表されることと比較しても、違和感がある。文化の日に発表するのだ、というのであれば、文化勲章文化功労者もそうすればいいのに。偉い人達の考えることは、やっぱり私にはよく分からない。
 私は、我が家の庭の整備と、その他の家事と、15㎞のランで1日が終わった。あれ?あまり文化的ではないな。