ドイツ訪問記 第七話(消費者の納得と生活の哲学)



 お金に関することを長々と書いてきた割には結論がない。「算数」はいくら考えても、最後まで解決しないのである。

 誤解してはいけない。私は今の日本が金銭的に貧しい、もっと消費が盛んであってもいい、などと考えているわけではない。むしろ、贅沢に過ぎる、今でも日本は「バブル」と言っていいほど浮ついた浪費を続けている、と思っている。今、私が持っている問題意識は、単にドイツと日本の実感的な経済格差を納得したい、というだけなのだが、もしかするとそれだけではなく、価格の適正ということについての日頃からの問題意識が、ことさらにこのことにこだわらせているのかも知れない。私は、日本が金満国家だと言われる一方で、わずか40%しか食糧自給率がないにもかかわらず、農家や漁家が赤字で米や野菜を作り魚を採っている、つまり米や野菜や魚といった食料品に、原価に見合った価格が設定されていないことが不思議で仕方がない。贅沢を排除する一方で、もっともっと高い価格を設定し、支出を増やして良い分野がたくさんあるような気がするのだ。そして、これらは違う問題のようでありながら、実は根を同じくするのではないか、と思えてきたのである。

 資本主義は競争社会である。日本で、もっと安く、もっと便利にという激しい競争が行われているのは自然なこととも言える。しかし、それが、過剰な安売り競争を招き、その結果、収入が減って購買力が低下したり、倒産の不安から多少の利益が出ても貯蓄に回すといった負の連鎖が生じるとすれば、競争は結局自分たちの首を絞めているだけだということになってしまう。輸入品を絡めながら、こうして引き下げられてきたものの象徴が、先ほどの食料品の価格である。

 これから逃れるためには、単に安さを求めるのではなく、商店の方でも適正な価格の設定に努め、消費者の側でも出来るだけ近くの店でものを買う、といったことを実践する必要があるだろうが、なかなかこれは口で言うほど簡単ではない。そのためには、社会の仕組みについての大局的な理解と、目先の利益を乗り越えて判断する「良識」とが求められるからだ。

 前回書いた通り、グッドルンから物価や19%の消費税についての文句は聞かなかった。そこには、ものの値段についての納得があるような気がした。なにもかも安ければいいというものではない。キャベツを作るのにそれだけの原価がかかっているのなら仕方がないではないか。支払った税金に見合う社会サービスがあるのなら、それを支払うのは当然ではないか。逆に、安さを求めて原価割れを容認すれば、税金を惜しめば、結局ツケは自分たちに回ってくるのだ。そんなことをごく自然に納得しているように見えた。

 思ったほどではなかったが、日曜日に営業していない店は多い。ベルリンのような大都市のショッピングセンターでも日曜日が全て休みであるのはさすがに驚いた。飲食店はむしろ日本より遅い時間まで営業しているものの、普通のスーパーや商店で深夜まで営業している店など見ることが出来ない。コンビニが存在しないことは既に書いた。これも同じことだ。

 より多くの売り上げを目指し、他の店との競争を勝ち抜こうと思えば、日曜日も営業はした方がいいだろう。彼らがそれをしないのは、おそらく、人々が日曜日に休めないことによって生じるデメリットを優先的に考えるからだろう。それは、主に家庭の問題(家族の団らん)であるはずだ。

 一方の日本は、二十四時間営業、正月でさえも休まない店が増えている。どう考えても、従業員は家庭で過ごす時間が取れているはずがない。競争に勝つためには仕方がない、と考えるか、たとえ自由競争とは言っても、犠牲にしてはいけないものは犠牲にしない、と考えるか、長期的な視野で考えれば考えるほどこの差は大きく深刻だろう。そしてこれらのことは、一部の人が考えるだけではどうにもなるものではなく、社会全体に共通認識があって初めて可能になる性質のものである。では、このような共通認識、いわば「節度」とか「良識」と言った方がいいようなものがどのようにして育つのか。謎は謎を呼ぶのである。

 木曜日、すなわちアルブレヒト家3泊の最後の夜、翌日以降の私達の行動について、アルブレヒト夫妻とあれこれ話をしていた。鉄道の時間や料金を調べてもらっていたら、バーンドがグッドルンに、私達をアイゼナッハかヴァイマールまで車で送ってあげるといいと言い出した。グッドルンもごく気軽に「そうね、いいわよ」みたいなことを言った。私は、一瞬驚き、そしてその後すぐに断った。何しろ、アイゼナッハまでは200キロ、ヴァイマールまでは300キロ近くあるのである。40キロ離れたヴュルツブルグまで送ってくれるだけでも申し訳ないと思っていた私には、ありがたいというよりは、少し異常な申し出のように思われた。

 二人は、ごく平然としていた。200キロなど2時間なのだから、何も気にするようなことではない、と言った。私が、片道だけではないのだ。グッドルンは私達を送った後、帰って来なくてはいけない、と言ったら、1日に400キロや500キロ走ることは、自分たちにとって珍しいことではない、ベルリンまで送ってもいいのだ、と言う。押したり引いたりが少し続いた後、結局、私達は1日、アイゼナッハまでだけ送ってもらうことにした。「私達は自分たちで旅行できるし、鉄道に乗るだけのお金も持っている。だから、送ってもらうこと自体はあまり必要ではない。ただ、グッドルンや二人の子供たちと一緒にいることは楽しいし、その時間が長く持てるのは嬉しいから送ってもらうことにする。ありがとう」と私は言った。

翌日は、7時にバーンドの出勤を見送ってお礼を言った。時差ぼけで調子が悪いと言いながら、朝寝坊をしていた私達がバーンドの出勤を見送ったのはこの時だけだった。朝食を取っていると、グッドルンのお母さんがわざわざ別れを告げに来てくれた。バーンドのお母さんの所には、こちらから挨拶に行った。たくさんのおみやげをもらった。中には、昨年亡くなったという彼女の夫、すなわちバーンドのお父さんの写真まであった。

 200キロも離れたところに行くというのに、アルブレヒト家を出たのは9時過ぎだった。ゴールホーフェンを出て10分でアウトバーンに入る。言うまでもなく、ドイツには網の目のようにアウトバーンという無料の高速道路網が張り巡らされている。24年前も、ヒッチハイクで大いに利用させてもらい、その立派さと、何よりも通行料不要という点に感心したことをよく覚えている。

 事情は何も変わっていなかった。片側2車線の高速道路をグッドルンの運転する車は130キロ/h前後のスピードで飛ばす。私は、助手席に座り、彼女から借りた道路地図帳を見ながら景色を眺めていた。相変わらず、どこまで行っても美しい。

 走っている車を見ていて珍しかったのは、キャンピングカーの多さであった。思えば24年前は、真冬であったために、キャンピングカーを目にすることがなかったのであろう。今回は、ちょうどドイツ人にとっても夏休みのシーズンである。トラックタイプであるかトレーラータイプであるかに関係なく、10台に1台がキャンピングカーと言っても大げさではないほど、それは多かった。車の外側に自転車を付けている車も多い。今回見たいろいろな光景の中でも、ドイツの物質的な豊かさを代表する光景の一つだった。

 ひたすら北へ向かって走っていた車が、キルッヒハイムのジャンクションで東に向きを変えると、間もなく昔の東西ドイツ国境となる。もちろん今は何もない。しかし、私は、ここから今回の旅行らしい旅行が始まるという気でいた。アルブレヒト家の人々に会うことが目的だったとはいえ、それを果たした後の第二の目的は東ドイツなのである。

(10月3日に続く)