ドイツ訪問記 第四話(風景の美しさと鉄道の快適さ)



【風景の美しさ】

 ドイツの風景は美しい。緑豊かで、淡い色の塗り壁と傾斜のきつい赤煉瓦の屋根を持つ家が、その緑によく調和している。どこを写真に撮っても、それが絵はがきになるほどだ。フランクフルト空港からヴュルツブルグまでも美しかったが、ヴュルツブルグからゴールホーフェンまでは更に美しかった。道路に沿ってマイン川が流れ、ほとりには歩行者・自転車専用の道路が続き、所々にベンチや広場があり、キャンピングカーを停めるスペースもある。人がそこをのんびりと歩き、あるいは子供がボールを追いかけている。ヴュルツブルグやローテンブルグのような歴史的な観光都市だけが、古めかしく美しいのではなく、名もない小さな集落でも十分に風情がある。加えて、花、花、花・・・。庭や玄関先のみならず、家々のあらゆる窓にぶら下げられたプランターには色鮮やかな花が咲き乱れていて、車の窓からそれらを見ながら、私と母はしょっちゅう歓声を上げていた。市場へ行けば、本当に多くの人が花束を買っているし、公園や歴史的建造物の庭にも花が咲き乱れている。彼らが、花を育て、花を愛でることに費やす労力と情熱にはほとほと感心させられた。

 街が美しいのはそれだけではない。電信柱、電線というものが一切無く、コンビニや深夜営業の店、そして自動販売機というものも無く(タバコだけは自販機があるが、たいへん控え目なものである)、従って仰々しく明るい看板が夜の風情を邪魔することもない。

 電線について言えば、町々を結ぶ送電線はある。街中に各家庭への配電用の電線や電信柱が無いのである。これがいかに街を美しく見せるか。ドイツの街には道路が石畳の所も多い。電線を地下に埋設するには日本以上の労力が必要だろう。その労力を、彼らは恐らく街の美観のために費やしたのである。これは、美というものにどれだけの価値を認めるか、ということだ。

 ドイツは日本と同様、第2次世界大戦の敗戦国であり、連合国の空爆によって多くの都市が破壊された。ヴュルツブルグでも、80%以上が破壊されたそうである。戦後の復興に当たって、彼らは当然のように元の景観の復元を目指した。人々が競って、他とは違うデザインの家を建てようともしない。このことが、調和の取れた美しい街並みを作っている。同時に、いかに外見のよく似た家に住んでいても、家に手間をかけるために、それぞれの家はさりげなく、かつ十分に個性的である。個性についての自信が、それを可能にしたのかも知れない。

 このような風景の美しさから、ドイツの「豊かさ」というものを痛感した私には、もう一つ、一見突飛ながら、関連するように思われることがある。それはドイツの鉄道についてである。寄り道しておこう。

【鉄道の快適さ】

 今回の旅行で、何回か鉄道に乗った。最初はフランクフルト空港からヴュルツブルグまでICEという特急に乗り、あとはアイゼナッハ〜ヴァイマール〜ライプツィヒ〜ベルリンと普通列車に乗った。本当はずっとICEで移動するつもりだったのだが、アイゼナッハでグッドルンと別れた時、普通列車はすぐにあるが、ICEは50分待たなければならず、ヴァイマールには普通列車が先に着くとあって、普通列車に飛び乗ったところ、これが非常に快適で速かったので、以後、お金がよけいにかかるICEはやめたのである。止まる先々の駅で、人の乗り降りを見ているのも風情があって面白い。

 鉄道が快適なのは、その座席が日本の特急並みだとか、レールの幅が広い(日本の新幹線と同じ)ため、車内のスペースがゆったりしているとかいうこともあるのだが、決定的に重要なのは、ドイツの鉄道がほとんど全て「動力集中式」を採用している点にある。

 少しマニアックな話だが、列車には動力集中式と分散式がある。簡単に言えば、前者は機関車が客車を引っ張るタイプ、後者は電車のように、各車両に動力装置が付いているタイプである。日本は、私が高校時代の1970年代後半までは、ローカル列車用の新しい客車さえ開発されたりしていたのだが、その後は、一貫して客車を廃止し、電車・ディーゼル車化を進めてきた。現在では、貨物列車を別にすると、長距離の寝台特急とイベント列車の一部以外に機関車+客車の形は存在しない。

 なぜ日本で動力分散式が主流となったかと言うと、分散式には加減速性能が高く高速運転を制御しやすい、短い編成でもロスが少ない等の長所があり、集中式には、それらの逆の短所に加えて、進行方向が変わるたびに機関車の付け替えが必要という非常に大きな短所があるからである(鉄道会社が「鉄道は環境に優しい」と宣伝する割に、鉄道の、特に車種別の燃費は具体的には公表されていない。だから、燃費について、集中式がいいか分散式がいいかは分からない。不確かな情報なので、それを断った上で、私が聞いたことのある話を紹介すると、編成が8両を越えると集中式の方がいい、らしい。ドイツの列車は、幹線でも4両編成くらいからあって、必ずしも長編成ではない)。要は、効率か乗り心地かの二者択一で、効率を最優先に考えたということだ。

 思えば、この集中式の短所の影響をより大きく受けるのはヨーロッパである。なぜなら、ドイツのみならず、ヨーロッパの大都市の中央駅には、行き止まり構造になっているものが少なくないからである。例えば、ライプツィヒ中央駅に列車が着くと、その列車は必ず反対方向に向けて出発する。この時、いちいち機関車の付け替えが必要というわけだ。

 にもかかわらず、ドイツでは、ディーゼル車で運行されているローカル線と都市部の通勤電車を除いて、全て客車。超特急ICEでさえ客車だ(本当はドイツだけではなく、ヨーロッパでは集中式が主流。昔、スペインでAVEという新幹線が集中式であるのを見てびっくり仰天したことがある。私にとって高速運転の常識に全く反することだった。それでも、聞くところによれば、最近は電車=分散式のものも登場しているようである)。このために、客車の一番後部、機関車と反対側の正面に、遠隔操作用の運転台を付け、機関車を付け替えなくても、どちらの方向にでも走れるようにした(日本でも、この技術は1999年から「きのくにシーサイド」という紀勢本線の臨時列車で用いられたが、この列車も昨夏に廃止)。機関車の運転性能も飛躍的に高めたようだ。こうなるともはや、分散式のメリットは小編成の時にしか存在しない。

 私は、モーターやエンジンの音・振動が大嫌いなので、日本で続々と客車が廃止されるのを以前から嘆いていたのだが、今回ドイツで久しぶりに客車に乗り、改めてその快適さに舌を巻いた。車両と車両の間に緩衝装置が付いているため、連結器の隙間によって出発の際に生じる衝撃がないということもあって、列車は、目をつぶっていればいつ動き出したのか気付かないほど静かに動き始め、ぐんぐんスピードを上げて、軌間が広く継ぎ目のほとんどないロングレールの上を、高速で滑るように走る。

 ドイツ人は快適な乗り心地を非常に重視し、それを確保するためには絶対に動力集中式がいい以上、まず動力集中式の採用を決め、その問題点を努力によって克服した、ということだろうと思う。快適さに対する執念、と言っても良い。

 美とか快適さとかいうものは抽象的な価値である。思えば、今や日本でも「食える」ということを、それだけで豊かだとはあまり言わない。良いか悪いかは別として、私達は、食えるという前提に立って、プラスアルファを人間的だと考え、豊かだと考える。だとすれば、それを突き詰めたのがドイツ(多分ヨーロッパ)だと言えるだろう。そして、抽象的価値を重視することが豊かだとすれば、経済効率を最優先にすることは文化的な未熟を意味する。ドイツは抽象的価値に貪欲でありながら、最終的に経済も効率も犠牲にはしていない。日本は経済や効率が自己目的化しているように見える。大切なのは、最終的に何を手に入れるかという哲学だ。何が欲しいか分かっていないのに、金さえあれば豊かさは実現するというのは幻想だろう。いくら効率を高めても、もっと高めようという永遠のレースが続くだけである。このことは、当然、単に風景や鉄道に止まらず、あらゆる社会問題に反映されることになる。

(9月10日に続く)